本当に重要な問題は何なのか

今日は、ちょっとキワドい話題について触れてみよう。
議論が若干込み入ってくるので、少し長文になります。
 
https://www.asahi.com/articles/ASL815FV3L81UTFK01C.html
  
杉田水脈衆院議員に続いて、同じ自民党の「谷川とむ」という衆院議員が、同性婚に関する法整備について、「多様性を認めないわけではないが、法律化する必要はない。『趣味』みたいなもので」と述べたそうだ。
こうした議員らの、「基本的人権」という発想を完全に忘却しきったかのような下品で粗雑で悪意ある発言に、唖然としてしまうのだけれど、ただし、この谷川発言に関して批判する際に、批判の論点を少し慎重に考えてみる必要があると感じた。
というわけで、ひとまずこうした下劣な議員らへの憤りはひとまず横において、1点だけメモしておきたい。
 
谷川氏の発言が責められるべきであるのは、同性愛を「『趣味』みたいなもの」と表現したという点においてではない。
もちろん、「『趣味』みたいなもの」という言い方自体が、同性愛を含む性的マイノリティーの問題を軽視している、もっと言えば蔑視しているではないか、と批判することはできるだろう。
だが、性的嗜好を「『趣味』みたいなもの」と捉えること自体が、必ずしも完全に間違っているわけではないだろう。では、性的嗜好と趣味は、どのような共通点を持っているか。それは、どちらも、「自分自身がなぜそのようなものを愛したり好きになったりするのか自分自身でもよくわからない。しかし、それは自分の人生に大きな幸せをもたらしてくれる。そして、それがなくては自分の人生が不完全で不幸なものになってしまうと感じる」、そのような種類のものである。そう考えれば、両者に一定の共通性は認められる。
例えば僕は、野球観戦や読書やショートケーキが好きである。なぜそれらを好きなのか自分ではわからないが、それらは僕の人生にこの上ない幸せを運んでくれる。その趣味を不当に奪われたら、非常につらいわけである。
 
問題は、ここからだ。
ちょっと考えてみてほしい。
仮に、あなたの趣味が野球観戦だとしよう。
もし、あなたが野球観戦という趣味を愛好していることを理由に、不当に差別を受けたらどうか。
例えば、野球観戦が好きという理由で、もし「あなたはマンションの賃貸契約ができません」とか「あなたは当社の採用試験を受けられません」とか「あなたは銀行口座をつくれません」などと言われたり、そのような態度をとられたら、どう感じるか。つまり、野球観戦が好きだという趣味を理由に、誰もが等しく享受できるはずの権利を不当に剥奪されら、どうか。
当然、あなたは、「野球観戦を愛好する我々を、不当に差別するな! 僕は、他人に野球観戦を愛好しろとは言わないが、少なくとも、賃貸契約も銀行口座開設もできるようにしろ! それは人間としての最低限の権利だろ!」と怒るはずだ。
性的マイノリティーの人たちも、そのように憤っているのではないか。
 
つまり、僕が書きたかったのは、こういうことだ。
谷川氏が、同性愛を「『趣味』みたいなもの」と表現したこと自体が、最大の問題なのではない。
「趣味」という表現を谷川氏から借用して言うなら、同性愛者の人たちは、たかだか「趣味」を理由に、大変不当な差別を受けている。自由に結婚することすら認められないという、基本的人権を侵害された状態であり、大きな不利益を被っている。だから、同性愛者の人たちは、「趣味」を理由に差別されたり基本的人権を侵害されたりしないよう法律化し、基本的人権くらいは取り戻させてくれよ、と訴えているわけだ。
にもかかわらず、谷川氏は、「いやいや、法律化する必要はないっしょ」という態度なわけだ。そこが、谷川発言の最大の問題点なのだと思う。
 
もう一度繰り返しておくと、「同性愛が“趣味”か否か」が問題なのではなく、目の前で起きている人権侵害を谷川という議員が公然と無視しようとしていることが問題なのである。
 
谷川発言に対する批判や議論がどう転がっていくのか気になる。
ワイドショー的に、「同性愛を“趣味”と言った。けしからん!」というアプローチでの批判に終始してしまうと、性的マイノリティーの人たちの基本的な人権や尊厳すら守られていないという肝心な問題のほうが置き去りにされそうで心配だ。
「けしからん!」的な批判は、ひとしきり視聴者が悪者を攻撃して溜飲を下げたら、視聴者はすっかりこの問題を忘れる。しかも、この失言した議員も、そのうち「『趣味』という言葉の選び方が誤解を招いて、申し訳なかった」とかなんとか、ピントのはずれた謝罪をして、問題の本質にきづかず(あるいは意図的に無視して)やり過ごすだけだろう。
 
  
というわけで、備忘録として、ここに書き記しておいた。