『ヤンキー文化論序説』

『ヤンキー文化論序説』(五十嵐太郎編著/河出書房新社)を読む。

ヤンキー的な感性を内在させている人は、「老若男女の区別なく、人口の約5割を占める」(ナンシー関)にもかかわらず、ヤンキー文化は意外に言及されてこなかった。そんな興味深いテーマに多角的に取り組んだ一冊。とても面白い。

本書で展開されるヤンキーの考察は、大きく分けて三つの視点に分類できそうだ。

一つ目は、暴走族やツッパリという種の人々がどんなライフコースを歩んでいたのかという、具体的なヤンキーの生態に関する側面。彼らは、地元の祭りや地域共同体にバックアップされながら、18〜20歳くらいでヤンキーを卒業し、早めに家族を持ち、地元で働く。で、大人になると、祭りの実行委員として正式に地元の祭りに参加していたりする。つまり、ヤンキーという生き方は社会からドロップアウトしているように見えるが、案外、小中学校で学業から挫折した人に対して安定した定型的なライフコースを提供していたのだ。地域共同体やヤンキーの存在を身近に感じたことのない僕にとって、新鮮な発見であった。なお、こうした具体的なヤンキーは、地域共同体の衰退とシンクロして、80年代後半には絶滅危惧種になっていたようだ。

二つ目は、「バッドセンス」「規範性」「様式性」「過剰表現」といった、ヤンキーの抽象的な側面。ヤンキーのエッセンスと言ってもいい。これは、なにも暴走族ツッパリに属したことがなくても、多くの日本人が持っているセンスだという。日光東照宮、歌舞伎、ケータイ小説、『小悪魔ageha』などを例示しながら、時代を問わず日本人の趣味には、ヤンキー的な感性が備わっていることを指摘する。

三つ目は、音楽や漫画、さらには教育現場の言説を通して、ヤンキーというキャラクターがどう消費されてきたのかという、商品としてのヤンキーの側面。例えば、音楽については、キャロル→横浜銀蠅BOOWYという系譜などが語られる。

ところで、興味深かったのは、本書の着想が、ある有名インテリアデザイナーの存在に端を発していることだ。とすると、日々インテリアデザインを取材している僕にとっても、他人事ではないかもしれない。

本書を読み終えて、一つ思い出した。以前から気になっていたのだが、プロ野球選手の私服姿はどこかヤンキー的バッドセンスを感じさせるが、Jリーガーの私服姿からはそういう印象をあまり受けない。もしかするとその理由は、野球が、アメリカから輸入されたのちに日本文化と混交されてカスタマイズされ国技のようになるという、ヤンキーファッションと同じ来歴を背負っているせいではないか。対してサッカーは、ヨーロッパからの影響が大きいから、ヤンキー的センスと縁がないのではないか。

いずれにしても本書は、日本でつくられたものや日本で起こるブームについて僕たちが考える際の有効な視座を与えてくれるだろう。日本のマスマーケットの生態分析としても読めるかもしれない。

印象に残ったフレーズもいくつかピックアップしておこう。
「ヤンキー的なものとは何か。それは成熟と洗練の拒否である」(永江朗
「日本人であるならば、全ての人の精神の中に、濃淡の差こそあれ、ヤンキー的要素は存在する」(酒井順子
「共通の記号を持っているということは、つまり見た瞬間にわかるってことは、マスだってことですよ」(都築響一
「ヤンキーのデザインは、過剰な装飾を通じて、モダニズムが切り捨てたシンボリズムの体系を再導入している」(五十嵐太郎
「『いい不良』というキャラクターが、テレビタレントとして非常に有効である」(ナンシー関

ヤンキー文化論序説

ヤンキー文化論序説