『岸辺の旅』

■『岸辺の旅』(湯本香樹実文藝春秋)を読む。

一生のうちに、これほど素晴らしく、これほど自分にとって大切に思える小説に何度出会えるだろうか。
読み始めたら、数時間で一気に読み終えてしまった。小説なのに赤鉛筆で線を引きたい文章が多く、読み始めた時は尖っていた鉛筆も、数時間後には随分と丸くなっていた。

ある夜、失踪して亡くなった夫・優介が、妻・瑞希のもとへ帰ってくる。二人は、優介の辿ってきた道を逆戻りしながら、束の間の旅をする。現実なのか、それとも瑞希の夢想なのか。
終始、静かでノスタルジックな世界が続く中で、生と死の境界も、現実と夢想の境界も、喪失と獲得の境界も、曖昧になっていく。生きていることとと死んでいることの境目は、日頃僕たちが思っているほど明瞭な境目で隔てられているわけではないのかもしれない。
人が死ぬことは決して一瞬の出来事ではなく、その事実が長い時間をかけて誰かに受容されたり、死んだ後も何度も誰かの心の中で思い出されたりする。そこに、生と死の中間のような多様で曖昧な領域が、茫漠と広がっているのではなかろうか。そう感じさせる小説だ。
また、本書の中で描かれる時間は、カレンダーのような直線的な時間ではなく、混沌として錯綜し、曖昧に前後が重なり合うような時間である。この時間感覚も、実際に僕たちが生きている時間の感覚に近いのではないか。きっと僕たちは、思っているほど、明瞭でビジネスライクな直線的時間を生きているわけではない。

人物の心理描写もいい。この作品に大きく感銘を受けた最大の理由は、優介という人物造形に、他人事とは思えないくらい僕自身と共通した何かを感じたからかもしれない。
また、女性の心理描写もとてもリアルに感じられた。必ずしも一般化できないかもしれないが、女性は誰かを愛するとき、こんなに深く相手を見つめて、こんな心境で会話をしているのか、と思い致る場面やセリフが無数に出てきて、心を刺激された。

全体に話のテンポが良く、省略もうまい。温かく穏やかなシーンもあるけれど、決して最後まで読者の緊張感を緩ませない。
なお、この緩く曖昧でぼんやりとした世界は、日本語以外の言語で書くことができないのではないだろうか、と感じた。

映画化やドラマ化をしたらヒットしそうだが、ぜひしないでほしい。


岸辺の旅

岸辺の旅