『暗いところで待ち合わせ』(乙一/幻冬舎/2002)

xsw23edc2008-07-05


■『暗いところで待ち合わせ』(乙一幻冬舎/2002)を読む。

ストーリー展開の妙技と二つのメッセージが、深く温かい読後感を残してくれた。

まず、ストーリー展開に関しては、乙一らしい数学的な設定。同じ空間を共有している人間が、しかし、互いに重なり合わないという“ねじれ”の時空間を描く。ちなみに、「“ねじれ”の時空間」という数学的なモチーフは、「SO-far そ・ふぁー」(『ZOO』所収)などにも共通する。
更に、最後まで読者を飽きさせないスピード感と意外性にも感嘆した。

そうした空間設定やストーリー展開の巧さもさることながら、それ以上に面白かったのは、本書における今日的な人間の描写がとても的を射ていることだ。同年齢の作者に、まるで自分自身の心を見透かされてしまったような気になる。

特に、社会との距離感に悩みながら生きる主人公たちの描写がいい。前半、主人公の一人ミチルを取り巻く人々を通して、人間の温かさ、愛情、主体性を描く。もう一人の主人公アキヒロを取り巻く人々を通して、人間の意地悪さ、愚鈍さ、集団心理を描く。こうした人間が持つ好悪の両面が鮮やかなコントラストで表現されており、おそらく多くの読者が“自分自身も自分のうちにその両面を有している”と共感するのではなかろうか。

それらの人間描写から、筆者のこんな声が聞こえてくるようだ。人は一人では生きられないが、しかし、わずかな人々との交流に支えられて孤独に静かに生きる権利だってあるはずだ。他人と群れていたい人間は群れていて構わないが、誰かが「孤独に静かに生きようとする権利」まで侵害するな。

つまり、今の社会に蔓延する“ノリの良さ”への下衆な同調圧力に対して強い批判が読み取れる。その点に強く賛同したい。ちなみに、読みながら、先日の秋葉原の事件が何度も頭をよぎった。

一つ目のメッセージが「孤独に静かに生きようとする権利」の肯定だとすると、二つ目のメッセージは、次のようなことだと思える。

そうして「孤独に静かに生きる権利」を肯定した上で、それでも、自分の殻から一歩外へ出て他人の心の襞に踏み込んでみると、そこには生きることの無限の喜びが開けている。他人と深く交友したり、誰かを深く愛したり信じたりすると、ときにはその分、別れや裏切りが訪れて深い悲しみに突き落とされることもあるかもしれない。けれど、その悲しみを補完するように、きっと深い喜びが存在している。その喜びを、私たちは他人と深く交わるという方法以外で得ることはできないだろう。

表面的には誰とでもすぐに打ち解け、滑らかなコミュニケーションスキルでノリノリの交友を広げている人も、反対に他人との接触を極力断ち自分の殻に隠遁している人も、そのどちらの人にも見えていない人間関係の可能性を、本書は提示しえているように見える。

終盤、そう思ってページを捲っていると、次のようなフレーズが重く響く。


  はたして自分のいていい場所はどこなのだろうかと、考えたこともあった。しかし必要だったのは場所ではなかった。必要だったのは、自分の存在を許す人間だったのだと思う。(254ページ)


他人と群れていることに違和感を感じたことのある人には、ぜひ読んでいただきたい。そして、他人と群れていることに違和感すら感じたことのない人には、よりいっそう読んでいただきたい。また、終始暗く重い空気の中に一筋の希望の光が射す、乙一独特の世界観を味わいたい方にもお薦めです。

                                                          • -

ついでに、5年ほど前に書いた『ZOO』(乙一集英社/2003)の感想文も載せておきます。

 この本をお薦めしたいのは、「ハリウッド映画があまり好きではない方」、「世の中、白黒や幸不幸など明快に分けられるはずがないと思っている方」などです。

 本書に収録された短編に共通するのは、ほとんど救いようのない悲劇の暗闇の中に、話の終盤、一瞬、光が差し込むことです。しかし、それは決してハッピーエンドで明るく爽快な光ではありません。むしろ、出口のないトンネルのような絶望の漆黒を背景に、一瞬差し込む、ぼんやりとした鈍い光です。その光に、希望や救いは、ほぼ皆無です。
しかし、エンターテイメント性は、非常に高いと言えます。

 因みにこの作者、相当数学ができる頭の持ち主ではないでしょうか。

                                                          • -

暗いところで待ち合わせ (幻冬舎文庫)

暗いところで待ち合わせ (幻冬舎文庫)