『差別感情の哲学』

『差別感情の哲学』(中島義道講談社)を読む。

著者が自分の感情に誠実に向き合って書いたであろうと思わせる素晴らしい一冊であった。共感と納得の連続である。
著者の読みやすいエッセイ系の本ではなかなか味わえないヒリヒリする感覚を久しぶりに味わうことができた。
気楽に読める分量ではあるが、示唆に富む。平易でスピード感のある文章が読みやすい。

購入するか迷っている方には、ひとまず183〜184ページの2ページだけでも立ち読みすることをお奨めしたい。ここに書かれた独特の居心地の悪さを感じながら、その感情にどう対処すべきか悩んでいる人には、価値のある一冊となるだろう。

本書の主旨は、次の一節に集約されているだろう。
「差別撤廃に向けて邁進するのではなく、『差別はなくならない』と呟いて諦めるのではない。自他のうちにうごめく差別感情を徹底的に批判するのである」(P.25)。著者は、この間で悩み逡巡している。そして、「自分の中に潜む怠惰やごまかしや冷酷さと戦い続けること」(P.219)。それには、「自己批判精神と繊細な精神」(P.26)が必要だと説く。

本書の主張に全面的に賛同した上で、ただ一つ、本書のように言葉を尽くして差別感情を解析し読者に伝える試みにも限界があるのかもしれないと感じた。というのも、ちょうど本書を読んだ日、ある人とたまたま差別感情に関する議論になり、その人は、「自分の素直な感覚を表出した結果として他人を傷つけて何が悪いのだ」というスタンスを頑として持っており、結局その考えから脱することはできなかったからである。
これは単なる1サンプルに過ぎないかもしれないが、この例から考えるに、著者が重要性だと説く「自己批判精神と繊細な精神」自体が、実は、各人が生まれつき持っている「人間的能力格差」(P.169)の一つであるかもしれない。だとすれば、人は、物心ついたときに「自己批判精神と繊細な精神」という一種の能力を持っていなければ、後天的にそれらを身に着けることは難しいのかもしれない。(そうは思いたくないが。)
ただし、それらを身に着けられなくても、それらを理解することだけはできる可能性がある。例えて言えば、こういうことだ。気温が1度変化すると暑い寒いの変化を感じられる繊細な温度感覚を持った人(A)がいるとしよう。他方、気温が10度変化すると初めて暑い寒いの変化を感じることのできる鈍重な温度感覚を持った人(B)がいるとしよう。AがBに対して、「10倍繊細な温度感覚を持て」と言っても、それは不可能な依頼だろう。しかしその依頼によって、Bが「10倍繊細な温度感覚」を実践することができなくとも、Bは「自分よりも10倍繊細な温度感覚を持っている人間が現に存在しているのだ」と理解することはできる。そしてその理解に基づいてBは、振る舞いを変えることはできるかもしれない。

本書に共感する人はあらかじめ「自己批判精神と繊細な精神」を持っていた人であり、そうでなかった人が本書を読んだことで、「自己批判精神と繊細な精神」を実践するようにはならないかもしれない。
ああ、しかし考えてみると、「自己批判精神と繊細な精神」を持たない人を、現に著者自身が(そして僕自身が)見下してしまっているのではないか。つねに自分の発言は自己へと帰ってくる。

差別感情の哲学

差別感情の哲学