秋葉原の事件

■編集会議。各自がネタを仕込めるだけのゆとりを持っていないと、活き活きしたアイデアが出ない。

■色校正やアポや連絡。

■マスメディアは、東京・秋葉原の無差別殺傷事件の話題でもちきりである。
とにかく人の命を奪うことは絶対に許されざる罪であるし、厳罰を処すべきだ。そして、無残に命を奪われた方々にはご冥福を祈りたいし、その他被害に遭った方々も少しでも早く快復されたらと思う。また、ナイフ規制を見直すことも、歩行者天国の中止を検討することも、まあ、それはそれで何らかの価値はあるかもしれない。

そうした前提を押さえた上で、それでも、この事件に対するマスメディアや人々の反応に一抹の違和感がある。
それは、こういうことだ。もしあなたが、この事件の容疑者と同じような年に、同じような親の元に生まれ、同じような能力を持ち、同じような容姿をを備え、同じような家に育ち、同じような地域で暮らし、同じような職場に就職してしまったら、あなたは「それでも自分はこのような犯罪を絶対にしない」と100%言い切れるだろうか。

私はこの犯人の行動に一縷の共感もできないし、大変怒りを覚えるが、しかし、この問いに100%「しない」と答えることができない。
「100%『しない』と答えることができない」ということが意味するのは、「加藤容疑者という個体の中に事件の要因の100%が存在しているのではない」ということだ。(だからといって、「この事件は容疑者を取り囲んだ生育環境や社会環境のせいである」と言っているわけでは決してない。)

ただ、ワイドショーや世間の会話には、「自分が被害者になるかもしれない」という恐怖や怒りが充満するあまり、「自分が加害者になるかもしれない」という視点からの思考はほとんど掻き消されているように見える。

けれど、「自分が被害者になるかもしれない」という視点で対策を案じるよりも、「自分が加害者になるかもしれない」という視点で対策を案じるほうが、現実性と有効性のある再発防止策が生み出されるように思えてならない。そして、後者の立場を選んだ場合、そこから生み出される解決案には、有効性は期待できるが、ナイフ規制やネットのパトロール強化のような即効性を期待させる雰囲気は漂っていないだろう。そのとき、目の先に広がるのは、気が遠くなるほど長い道のりだが、それより近い道は用意されていない。