2010年仕事のまとめ 二番煎じ 人間失格

年始のことなどいくつか。

■元旦は、2箇所で親戚20人くらいにまとめて会う。

■仕事に関する昨年の簡単な備忘録。
昨年も提案したうちのいくつかの企画を、実現することができた。店舗設計者や店舗運営者の方々のお仕事に、少しでも役立てていただけたら何よりの喜びである。

大きな特集では、
「新年号特別企画/PRESENTATION!」2010年1月号
「特集/商業ビル開発」2010年3月号
「レポート特集/アンティークアイテムでつくる世界観」2010年7月号
「エレメント特集/面を演出するPAINT & COLOR」2010年9月号
「特集/これからの商空間サウンドデザイン」2010年11月号
「特別企画/商空間を彩るデジタルエレメント」2011年1月号。

記事では、
「創造性を引き出すオフィス空間のつくり方」「オフィス内リラックス&非日常スペース 5題」2010年4月号。

大型物件の取材では、
「ザ・ペニンシュラ 上海」「ザ・プリ ホテルアンドスパ」2010年6月号
「ARMANI HOTEL DUBAI」2010年10月号など。
http://www.shotenkenchiku.com/




気づいたら、2009年から3年つづけて新年号の大型特集を担当させてもらった。光栄なことである。もちろんこれも社内外の方々(設計者の方々、ライターさん、カメラマンさん、エディトリアルデザイナーさん、編集部の仲間)の多大なサポートがあってのことだが。
新年の大型特集は毎年、その特集を立案した者を中心に編集部の3、4人でチームをつくり取材や制作を行っている。

今年は、弊誌のウェブサイトも充実させたい。ウェブ上で書いていた施工現場レポートも、昨年ひとまずホテルの改装現場レポートをやってみたが、2件目として今年の初旬からは、品川に計画中の大型飲食店の施工現場レポートができそうだ。

■今年の4月に「月刊 商店建築」は創刊700号をむかえる。つまり大きくて古い船のようなものだ。一方、編集部は比較的若いメンバーだ。これまでの弊誌編集部の中でも特に平均年齢が若いかもしれない。言ってみれば、新しい水夫。
そんなことを考えていたら吉田拓郎の「イメージの詩」の歌詞の一節を思い出した。
「古い船には新しい水夫が
乗り込んで行くだろう
古い船を今動かせるのは
古い水
夫じゃないだろう
なぜなら古い船も新しい船のように
新しい海へ出る
古い水夫は知っているのさ
新しい海のこわさを」(作詞/吉田拓郎

というわけで、今年も新しい水夫たちが古い船をぐいぐい動かしていく予定ですので、よろしくお願い致します。

■ソファにゴロンとしながら、古今亭志ん朝の落語「二番煎じ」を聴く。これは、冬にぴったりの噺だ。火事が多かった江戸の町で、町人たちが火の番をするために二つのグループをつくって町内をまわる。片方のグループが町内をまわっている間、もう一方のグループは番小屋で暖をとって休憩している。その休憩中、酒を飲んではいけないことを知りながらも、ついつい飲んでしまうというストーリー。寒い中で誘惑に勝てず、熱燗をみんなで飲んでしまうシーンは、人間の「分かっちゃいるけどやめられない」という種類の心理を上手に描いており、実に微笑ましい。
有名なところでは、「分かっちゃいるけどやめられない」の心理は、植木等が「スーダラ節」で面白く歌っている。
そういえば、この「分かっちゃいるけどやめられない」の心理を、ジョージ・エインズリーが著書『誘惑される意志』の中で、「双曲割引」という理論で説明していた。

■年賀状を書く。

■『人間失格』(太宰治新潮文庫)を再読。なにも正月早々こんな暗い小説を読まなくてもよいのだが、つい読んでしまった。
太宰本人がモチーフとおぼしき主人公・葉蔵(ようぞう)の27年の人生をテンポよく回想するという内容。葉蔵は27歳で死ぬわけではないが、ほとんど廃人といった様子で療養生活をしており、作品はそこで終わる。
葉蔵は、学生時代には親の金で遊びまわり、その後も大した努力も労働もせず(漫画を描くという仕事を少しするが)、アルコール依存症になったかと思えば薬物依存症になるというメチャクチャな生活を送る。それでいて、なぜかいつも女性に気に入られてしまう。現代で言うところの「ダメンズ」か。いや、ダメンズ以下かもしれない。


しかし、葉蔵がどのくらいダメかとか、この小説がどのくらい実話に基づいているかとか、そんなことはどうでもいい。僕にとってこの作品の価値は、「どうしても人生にリアリティーを感じられない人間が、どのような気持ちを抱えて生きているのか」を的確に描出しているという一点にある。
葉蔵はおそらく自分の「生」にリアリティーを感じていない。小さな具体例としては、冒頭の幼少期のシーンで、「自分には『空腹』という感覚がどんなものだか、さっぱりわからなかった」(p10)と言っている。そして最も大きな具体例は、自殺を企てるプロセスがあまりにもあっさりしていることだ。自殺を企てるシーンが二度登場するが、葉蔵は、思いつめた挙句に自殺に踏み切るのではなく、つねにあまり生に執着していないために、まわりの状況がきっかけで、ふと自殺に踏み切る。例えば一回目は、交際中の女性の口から「死」という言葉が出て、「そのひとの提案に気軽に同意しました」といった具合だ。二回目は、たまたま自宅の台所で催眠剤を見つけ、それを大量に飲んでしまう。つまり葉蔵は、自分の生死にすらあまりリアリティーを感じていないように見える。どこか他人事なのだ。葉蔵は他人とのコミュニケーションにもリアリティーを感じていないから、「道化」としてコミュニケートするしかなく、「『友情』というものを、いちども実感した事が無く」(p87)、「人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがある」(p88)のだ。


思うに、葉蔵は、人生に対して「盲視(ブラインド・サイト)」のような状態なのではないだろうか。盲視というのは一種の視覚障害で、例えば盲視の人は、ボールが飛んでくると避けたりと、まるで物が見えているような振る舞いをするが、本人は「見えている」という実感を持っていない。おそらく物理的には「見えている」のかもしれないが、見えているものに対してまったくクオリア(質感)を感じていないようだ。通常、人は、ボールやリンゴや石を見たとき、その物に対して「持ったら重いだろう」「触ったら冷たいだろう」「食べられるものかもしれない」などと直感的に質感を感じている。特に、その物と自分との関係において、リアルな質感を感じている。盲視の人にはそれがないようだ。
葉蔵も同様に、一応生きてはいるが、人生にリアルな質感を感じていない。空腹も、友人との会話も、異性とのコミュニケーションも、自分の生死も、それらすべては他人事であり、自分自身に関係のある出来事だと感じることができないのだ。きっとこれは、他人から「人生に責任を持て」とか「もっと一人前のオトナになれ」などと陳腐な説教をされたところで、本人には改めようのないことなのだ。おそらく本人だって、なぜ他の人と同じようにうまく世間とシンクロして生きることができないのだろうか、と困っているのだ。(実際、葉蔵は、世の中の人々が了解している「世間」という概念が実感できず、「世間とは個人なのだ」と言っている。もっとも、世間とは個人であるという認識は正しいと思う。)


人生に対して盲視のような状態で生きている人は、多くはないかもしれないが、おそらくいつの時代にも一定数いるのではなかろうか。そういう人がいる限り、時代を経てもこの作品は読まれ続けるだろう。作者が止むに止まれず書いた個人的な内容が少なからぬ人々に共感を提供するとき、小説(に限らず芸術作品)は普遍性を獲得して価値ある作品になるのではないかと思う。少なくとも僕はそういう小説が好きだ。

人間失格 (新潮文庫)

人間失格 (新潮文庫)


■自宅に正月用の花が飾られていた。