『笑い』

『笑い』(アンリ・ベルクソン岩波文庫)を読む。

笑いや滑稽について考える上で示唆に富んだ素晴らしい一冊。
 
本書の主題は、「笑いを誘うものの根底には何があるか」。それに対するベルクソンの答えは明快だ。「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」。それが笑いを誘うのだ。本書はこの一点についてひたすら説明している。「ほんとに生きている生は繰返される筈はない」にもかかわらず、それとは対照的な「自然の中に嵌め入れられた機械仕掛け」や「社会の自動的な規則ずくめ」に遭遇したとき、人は滑稽さを感じて笑うのだそうだ。そう考えれば、漫才やコントの中で、結婚式や葬式という儀式がシチュエーションとして頻繁に使われる理由もわかる。 
僕は「サラリーマンNEO」というコント番組が大好きなのだが、その中でも、自動化されたサラリーマンの慣習が笑いのネタになっている。ベルクソンはそれを「職業的自動運動」と呼んでいる。
僕の以前から抱いていた、なぜモノマネという芸はこれほどにおかしいのか、という疑問にも本書は答えてくれた。
ベルクソンの指摘には、非常に合点が行った。
 
しかし、さらに興味深いフレーズを見つけた。「笑いは常に集団の笑いである」。滑稽は、「社会の偏見と非常に深く関連している」。「虚栄心の特効薬は笑いであり、そして本質的に笑うべき欠点は虚栄心である」などだ。
たしかに、ベルクソンの言うとおりだと思う。人が誰かの何らからの性格や行動を笑うとき、そこには、その性格や行動を異常と見做し、正常へと矯正しようとする意志が働いている。
けれど、すべての滑稽さが「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」に起因するとしても、その滑稽さの中身は二種類あるように思える。一つは、上記のように他人の異常行動を正常へと矯正しようとする笑い。つまり、他人や自分を「笑い者」にすることで成立する笑いだ。もう一つは、矯正への意志を一切含まない、純粋な滑稽さ。つまり、純粋に「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」という構造のみが誘う笑いだ。世の中にあふれる多くの笑いが前者のような気がする。しかし、僕は前者を嫌い、後者を愛する。
 
なお、本書の序章にも書かれているように、本書で論じられる笑いは、「おかしみによって特に喚起される笑い」である。おかしみによって喚起される場合以外にも、人は笑う。例えば、よく映画で悪役が笑いながら登場する。あるいは、呆れたときにも人は笑う。そうしたもっと広いシチュエーションで笑いを考えてみたい。次はエリック・スマジャの『笑い』(文庫クセジュ)を読んでみようか。
 
ベルクソンの本書を下敷きにした本に『不気味な笑い』(ジャン=リュック・ジリボン)があるが、その中では、行為に意味を与える枠組みを別の枠組みにずらすことで滑稽さが生じるというような指摘がなされていたが、その指摘もベルクソンの「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」の中に包括されるだろう。
 
最後に、『不気味な笑い』と同様、本書も、「どんな場合に人が笑うのか」を説明しえているが、「そのような場合になぜ人が笑うのか」については説明していない。ヒントになるとすれば、ベルクソンのいう「放心」というキーワードだろう。では、なぜ放心すると人は笑うのだろうか。その先は、おそらく神経科学や生物学の話になりそうだ。
 

笑い (岩波文庫 青 645-3)

笑い (岩波文庫 青 645-3)