スモーク

こんにちは。

■映画「スモーク」(監督:ウェイン・ワン、1995)を見る。
断片的なエピソードたちを編み合げたような映画だが、それらのエピソードは共通のモチーフを持っている。そのモチーフは、「親愛なる人との別れと邂逅」。登場人物たちは皆、親子、夫婦、孫といった親愛なる人と離ればなれになってしまった人たちだ。それなのに彼らは、予期せぬタイミングで、失ったはずの親愛なる人と再会してしまう。
その構図を象徴するのは、主人公の一人が語る挿話だ。ある登山家が雪山に登っているとき、過去にそこで遭難して雪の中で冷凍保存状態になっていた自分の父親の遺体に再会する。その遺体の顔が自分にそっくりだったから、登山家はその遺体が自分の父親であると確信する。しかも、そのとき登山家は、死んだ父親の年齢を追い越してしまっていたのだ。ここに、この映画のテーマが集約されている。つまり、予期せず再会してしまう親愛なる人は、自分自身を映す鏡でもあるのだ。
 
この映画の主人公たちは、どこか影があり魅力的な人々だ。そして皆、別れたはずの親愛なる人と遭遇する。タバコ屋のオーギー・レンは、突然訪ねてきた昔の恋人に「私たちの娘がドラッグに溺れているから助けてほしい」と言われる。オーギーも、それが自分の娘なのか半信半疑だ。そしてスラム街の娘の住居を訪ねてみれば、娘は既に堕胎しており、悲しいことに、親子は生まれる前に死別している。
作家のポール・ベンジャミンは、オーギーが撮った写真の中に、死別したはずの妻を見付け出してしまう。
黒人の青年トーマス・コールは、蒸発した父親に会いに行くが、トーマスの父親もまた、最愛の人との死別を背負いながら生きていた。
 
この映画の登場人物たちは皆、どこか茫漠とした喪失感や諦念に包まれながら、自分の仕事にも本腰が入らず漫然と暮らしている。例えば、オーギーは不法な煙草を輸入するし、ポールは小説の執筆が進まない。けれど、そんな冴えない毎日を送っている彼らが輝いて見えるのは、なぜか。それはおそらく、彼らが人間関係で深い喪失感を味わった経験を持つにも関わらず、決して他人と関係を結ぶことを避けず、むしろ他人とコミュニケートすることに積極的で前向きだからだろう。
そして、積極的に他人とコミュニケートしようとする姿勢は、やがて、擬似家族とでも呼べるような親愛関係を生み出していく。
オーギーの経営するタバコ屋は、そんな他人とコミュニケーションすることを諦めない人々が立ち寄るコミュニケーションの空間なのだ。いま日本でも、多くの人が他者とのつながりが希求しているが、こんなオーギーのタバコ屋みたいな空間が日本にもあったらいい。いや、昔はあったのだろうか。
 
作中で登場人物たちが語るエピソードはどれも、現実のような嘘のような話ばかりだ。その虚実の境界線は、まるでそこに煙草の煙が立ち込めているかのように、曖昧に霞んでいる。けれど考えてみれば、僕らが体験している日常生活においても、親愛なる人との出会いや別れを誰かに語ろうとすれば、それは現実のような嘘のような、偶然が重なった奇跡の物語の様相を帯びてしまう。「現実のような嘘のような、偶然が重なった奇跡の物語」という特質は、この映画の原作と脚本を手掛けたポール・オースターの作品の特徴と言えるだろう。
オーギーは、毎日毎日、同じ時刻に同じ場所から同じアングルで1枚の写真を撮り続けている。この映画自体もまた、オーギーの写真と同じように、あまり感情移入せず、淡々と定点観測的に人々の出会いと別れを記録しているような印象を与える。そのドライな記録からどんなストーリーや感動を見い出すかは、それぞれの読み手次第なのだ。まさにポールがオーギーの写真の中から死別した妻を見い出したように。
 
人間関係に興味がある人には、とてもオススメの素晴らしい映画。映画「ナイト・オン・ザ・プラネット(Night on Earth)」が好きな人はとても楽しめるかも。

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