「編集長を出せ! 『噂の真相』クレーム対応の舞台裏」

■「編集長を出せ! 『噂の真相』クレーム対応の舞台裏」(岡留安則ソフトバンク新書)を読む。
2004年に休刊となったスキャンダル雑誌『噂の真相』の元編集長が、同誌をめぐる数々のトラブルについて記した本。著者の岡留氏は、タブーを徹底的に嫌う。それがこの雑誌づくりの原動力であったように見える。
タブーとは、権力者や、あるいは社会の空気が強要する言論弾圧だ。なぜ、言論が弾圧されるのか。それは、その言論が明るみに出ると、ある人々が隠しておきたかった腐敗や不正や矛盾が明るみに出てしまうからだ。その腐敗や不正や矛盾は、たいていの場合、社会を悪くしている。それらを暴いて社会を少しでも良くすることは、出版人の使命だと思う。
僕が制作に携わっている建築専門誌は、内容の上では『噂の真相』のようなスキャンダル雑誌とはまったく異なる。けれど、社会を少しでも良くするという最終目的は、建築専門誌でも同じだと思う。こう言うと大袈裟で偉そうに聞こえるかもしれないが、出版業の根本は、正義の追求にあると思う。それは、専門誌でも情報誌でも週刊誌でも論壇誌でも右翼雑誌でもゲイ雑誌でも同じだ。
本書では、『噂の真相』にスッパ抜かれた有名人たちの対応や、トラブルになった場合の編集部側の対処法が面白いエピソードとともに書かれている。特に、トラブル時の「相手に直接会って話す」「まずは相手の話を聞き、相手がどんな人物であれ真摯に対応する」「相手の主張を最後まで聞く」「話せばわかる」という著者のスタンスには共感する。僕自身も、上司や先輩にそう教わってきたし、そうできるように日々心がけている。(これがなかなか難しいのだが。)
 
スキャンダル誌に裁判はつきもののようだが、著者も自身の裁判を通して、検察や裁判所の在り方に疑義を呈している。たとえば、名誉毀損などで出版社を訴える人も、事実の真偽などの本質に目を向けず、重箱の隅をつつくような主張をする。しかも、あろうことか、裁判所がそれにのっかってしまう。著者は、そんな「憲法で保障された『言論の自由』という概念すら忘れたかのよう」な最近の裁判所の実態を嘆く。
また、『噂の眞相』が記事化した検察庁の調査活動費問題を通して、検察の隠蔽体質や権力乱用を指摘する。これが本当だとすれば、「大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件」が起きたことも不思議ではない。
そして、森喜朗氏(元首相)の売春検挙歴をめぐる裁判や、野中広務氏の同和利権問題をめぐる裁判の顛末を例示した後、著者はこう書く。「日本の縦横に張り巡らされた利権構造、特にこうした公共事業の利権は強固で闇が深い」。いま、もし『噂の眞相』が刊行されていたら、原発ムラの利権構造にどんなふうに切り込んだのだろうかと、思いを巡らせてしまう。
 
読み終えて感じるのは、シンプルな原理原則を貫くことから生まれる「強さ」と「生きやすさ」だ。著者は、「同業者でも問題があれば批判したり記事化するのは当然」「とにかく知り得た情報はすべて書くこと」をポリシーにしてきたという。日々感じていることだが、建前や嘘や矛盾や不正を排してクリアに生きれば、仕事はしやすくなる。その結果として、著者が言う「謝罪すべき時には謝罪し、理不尽な要求には徹底して抗戦し筋を通す」という姿勢も取れるようになるだろう。
   
いくつか印象に残ったセンテンスを挙げておこう。
「バランス感覚もまた編集者にとって必要な判断力のひとつだ」
「懐深くイケイケでオープンな人物がやっている雑誌の方がエネルギーも感じられ売れ行きもいいということは否定できない。あれもこれもダメと現場を締め付ける管理型のタイプが編集長になれば、コストダウンには成功しても、確実に現場は萎縮して愚痴が充満するようになる。そうなった雑誌は、現場の活気が消え去り、やる気のなさが悪循環として表出する」
「転んでもタダでは起きない、この気概こそが途を開く」
 
そういえば、この本、前編集長から借りっ放しになっていた。次回お会いした時に返さねば。