『屍者の帝国』

屍者の帝国

屍者の帝国


屍者の帝国伊藤計劃円城塔河出書房新社)を読む。
 
読み終えて、思う。
私たち人間は、動物と何が異なるのか。ロボットと何が異なるのか。ロボットに何を付加したら、それは人間になるのか。何が人間を人間たらしめているのだろうか。
いや、そもそも、何が人間を人間たらしめているのかなんて問う意思そのものが、人間特有の機能なのではないか。
いやいや、待てよ、「言葉」がなければ、そんな問いを発すること自体が不可能なのだから、意思を生み出している原動力は人間というよりも言葉のほうなのだと考えるべきかもしれない。
 
と、まあ、そんな問いかけが、この長篇小説に伏流している。そんな問いに興味があり、なおかつSF小説が好きだという方は、本書を読んで損はないと思う。
 
とりわけSF小説に興味があるわけでもない私が本書を読み通した理由は、伊藤計劃円城塔という興味のある二人の作家による合作だったから。34歳で早世した小説家、伊藤氏の遺構を、円城氏が引き継いで完成させた。ページ数にすれば、伊藤氏の執筆分は全体の5%ほど。プロローグのみだ。
そもそも共同執筆であるという点が、円城氏の作品にふさわしい。円城作品にはいつも、“私たちは本当に誰からも邪魔されたり制約されたりずに自由な意志で言語を運用しているのだろうか”、という問題意識が流れているからだ。だから、どこまでが円城氏の作品であるのか判然としない本書の在り方は、円城作品にぴったりだ。
 
さて、舞台は19世紀末。主人公ワトソンらが、ロンドン、アフガニスタン、日本、合衆国などをめぐる軍事SF。
本書の設定の最大の特徴は「屍者技術」だ。人間の死体にプログラムをインストールすると、死体は「屍者」として蘇生し、労働や戦闘を行うことができる。ただし屍者は、感情、意志、滑らかな動作などを欠いている。つまり、屍者はロボットか人工知能に近く、現代の話として読める。
 
そう、ロボットや人工知能を製造するのなら、「2001年宇宙の旅」に登場するコンピューターHALのように人間に歯向かったりしては困るので、何かしらの倫理規定が必要になるはずだ。本書で何度も言及される「フランケンシュタイン三原則」には、「生者の能力を超えた屍者の製造はこれを禁じる」とある。なるほど、確かにそのほうがよいだろう。しかし、本書を読み進めていると、このルールを守ることは意外に難しいのではないかと思えてくる。なぜなら、まず生者が「生者の能力」を正しく認識できていなければならないからだ。あるいは、屍者が製造された後に自律的に学習して成長し、生者の能力を超えてしまった場合は、どうするのか。屍者が滑らかな動きを習得してしまったら、「ブレードランナー」に登場する人造人間「レプリカント」のように、外見上、生者と区別がつかなくなりそうだ。そんなことを連想させる。
だが、心配には及ばない。というか、心配しても無駄だ。本書の登場人物たちが何度も口にするとおり、可能なものはいずれ実現してしまう。
そんなわけで、ワトソンたちがめぐる19世紀末の世界では、屍者技術が暴走したり悪用されたり、大変なことになっている。当然ながら、死者にではなく生者にプログラムをインストールしてみようと実験する輩も出てくる。
いつの時代も、技術そのものが悪いわけじゃない。技術は中立だ。それを利用する人間たちが、各自の思惑や企みや情念に基づいて技術を利用するとき、初めて「良い使い方」と「悪い使い方」が生じる。それならば、いっそのこと、本書の中につねに見え隠れしているような「屍者だけで構成された国(=屍者の帝国)」のほうが、人間たちの国よりも平和なんじゃないか、とさえ思えてくる。
 
そんな人間たちを人間たらしめているのは、本書によれば、「菌株」「言語」「物語による意味づけ」などといったあたりの何者かだ。
他の動物と異なり、なぜ人間だけが魂を持つのか。魂を喚起するのは言語だ。いや、待てよ、他の動物が魂を持たないのではなく、他の動物の持っている魂を人間の言語で理解することができないだけではないのか。そんなことを延々考えている本書の登場人物たちが、私は好きだ。そうして、「バベルの前に魂だけで交流していた頃の純粋言語」を追求し始めるあたりは、ポール・オースターの小説も想起させる。
 
なお、何度か描かれる大掛かりな戦闘シーンは、映像が目に浮かぶ見事な描写だ。CG全開のハリウッド映画のようではあるが。
いつか映画化されるのだろうか。映画化するにしては思弁的すぎるだろうか。
 
お時間とご興味のある方はぜひご一読を。