『オラクル・ナイト』(ポール・オースター/新潮社)を読む。


オラクル・ナイト

オラクル・ナイト

なんと主人公のシドニー・オアは、重病から帰還した病み上がりの34歳。彼は作家だが、まだ日常生活にも支障があり、まともに仕事ができない。なんとか少しずつ仕事を再開できるかもしない目処が見えてきたところだ。
個人的に、僕はこの設定にあまりに強烈なシンパシーを覚え、冒頭からこの物語に強く引き込まれた。この設定を知った瞬間、本書を最後まで読み切ることは決定したようなものだ。
自分の身体が思い通りにならず、人生を前に進めたくても、進めることのできない無力感と絶望感と屈辱感。
いや、百歩譲って、人生を前に進めることができなくとも、日々、身体の不調に煩わされることなく、仕事に集中することができたら十分だ。そして、大切なパートナーには、心配ばかりかけるのではなく、人並みの安心と幸せくらいは提供したい。それなのに、現実の自分は、この身体の不調に多くの注意とエネルギーを払わなければならず、不意に訪れる不調のために、1時間後には喫茶店か駅のベンチで休んでいるかもしれない。
そんな気持ちをポール・オースターは、的確に描いてみせる。オースターの実体験に基づくのだろうか。
もしシドニー・オアがこの世のどこかにいるのなら、一度会ってみたいと強く思う。
 
さて、本作品の主題の一つは、作中で明言されているとおり、「時間」だ。本作は、「時間をめぐる寓話」。
けれど、オースター自身がどの程度意識したかわからないが、本作の主題はおそらく他にもいくつかある。主題とまではいかなくても、少なくともサブテーマが。
それは、「過去」「物語(時系列の因果関係)」「運命」「病気」「死」「信頼」などだ。
 
良い出来事であろうと、悪い出来事であろうと、僕らは、過去の出来事を理解するために、時系列の因果関係を用いなければならない。時系列の因果関係とは、平たく言えば「物語」だ。物語を媒介にせねば、僕らには、過去の出来事の羅列を理解することは難しい。
作中で描かれる元タクシー運転手のエド・ヴィクトリーは、膨大な電話帳コレクションを保有しており、それらを「地理別」から「時系列」に並べ替える作業に着手する。このエピソードが象徴するように、無意味な事実の羅列でも、時系列に並べることで、そこに物語が立ち上がる。その物語の中で、個々の事実は意味を持ち始める。
 
僕らは、そうして、日々、大小様々な物語を織り上げながら、無意味かもしれない個々の出来事に関連性と意味を与え、それらをひとまず「理解」して生きている。しかし、その物語はときに、多くの憶断や推測を含む。というより、憶断や推測なしに、物語を織り上げることはできないだろう。
主人公シドニー・オアも、本書の中で多くの物語を織り上げ、身のまわりで起こる出来事の意味を理解しようとする。妻グレースの不可解な行動をめぐる物語。中国人商人チャンの素早すぎるビジネス活動をめぐる物語。親友の息子ジェイコブがなぜグレースをこれほど嫌悪するのかの理由をめぐる物語。さらにシドニーは、作家として、いくつかの物語を編みあげていく。これらの物語のどれもが、わずかな事実と大いなる推測で構成されている上に、シドニーの視点で語られているのだから、真偽のほどはわからない。病み上がりでたくさんの薬を飲んでいるシドニーの妄想ということだって有り得る。にもかかわらず、僕らは、こうして日々物語を編み上げずにはいられない。その証拠に、急な不幸が僕らを襲ったとき、僕らは反射的に「なぜこんなことになったのか」とつぶやく。人間には物語が必要なのだ。
 
そしてまた、物語は、人と人との信頼関係を生んだり壊したりする。誰しも経験したことがあるだろう。友人があなたにしてくれた行為を思い返し、あなたは「そうか、このような理由で、彼はそうしてくれたのか」と思い至り、その人に対する強い信頼の感情を持つ。あるいは、逆に、「彼は一見私に親切にしてくれたように見えたが、このような裏の企みがあったのか」という因果関係に思い至り、その人への信頼を失う。
本書は、そうしたエピソードにあふれている。シドニーとグレースの信頼関係。シドニーと、シドニーが信頼する友人であり作家であるジョン・トラウズとの信頼関係。ジョンと息子の信頼関係。シドニーとチャンとの信頼関係。それらは、構築されたり、壊されたり、再構築されたりと、危うく揺れ動く。シドニーは、その都度つねに物語を編みあげながら、相手を信頼したり、壊れた信頼の理由を探ってみたりする。
 
つまり、僕らにとって物語は、出来事の意味や人との信頼関係を考える上で、あまりにも重要なツールなのだ。しかしながら、その一方で、身のまわりで起こる出来事は、本当にそんなに明快な物語で結び付けられるほど分かりやすく直線的な因果関係を結んでいるだろうか。シドニーが描く小説の中には、そんな「分かりやすい因果関係で構成される物語」を否定するエピソードがいくつか登場する。例えば、シドニーが作中で描くニック・ボウエンなる人物は、一般的に見れば幸せな人生を送っている30代半ばの編集者。彼が道を歩いていると、建物の上部から石でできた飾り物が落ちてくる。ニックは危うく死ぬところだった。九死に一生を得たニックは、人生は脈絡なく唐突に変転したり終わったりするということをおそらく触知し、自分でもよく分からぬまま、なぜか飛行機でカンザスシティに向かう。ニックのまわりの人々は、一体彼に何があったのかと推測しようとするが、いまいち分からない。本人ですら分からない。このニックの行動には、明快な因果の連鎖に支えられた物語など見い出せないのだ。けれども、衝動的に何かの力に突き動かされて、すべてを捨てて失踪するニックの気持ちに、少なからぬ人々が共感するのではないだろうか。
  
もう少し考えてみれば、そもそも人生を左右する一大事である「病気」と「死」こそ、多くの場合、因果関係のロジックでは理解できないのではないか。少なくとも、人間の大雑把な知覚能力で解析できるような因果関係は見いだせない。
シドニーは、なぜか大病と、それにともなう大怪我をする。ジョンは、56歳で死ぬ。エドは、タクシー運転手を引退し、いよいよ長年のライフワークに本格的に取り組もうとしたところで、病で死ぬ(エドの病死については、過度の喫煙と体重過多が原因であろうが、それとて、断言はできない)。悲しいことに、本書の中には、生まれずにして死んでしまう赤ん坊のエピソードも描かれる。そしてまた、シドニーのように、確実と目された死から生還する者だっている。さらには、本書は第二次大戦やユダヤ人の話題に言及するが、これこそまさにどんな因果関係でも説明のつかない唐突で残酷な大量の死だ。
「病気」と「死」だけではない。「愛」もまた因果関係で説明のつかない唐突な出来事だ。なぜ、この人を好きになったのか。多くの人が、こう答える。「優しいから」「カワイイから」と。だけど、本当にそうか。優しい人やカワイイ人は無数にいるはずなのに、なぜその人なのか。愛も因果関係で説明がつかない。
 
というわけで、まとめよう。
この小説には二つのメッセージが込められているように読める。
一つは、僕たち人間は、物語なくして、出来事の意味を理解したり人への信頼を抱いたりすることが難しいということ。
もう一つは、それにも関わらず、世界は、因果関係など寄せ付けない唐突さと無意味さにあふれているということ。
いわば、前者は「人間の在り方」。後者は「世界の在り方」だ。
とすると、僕ら読者の関心は、こんな世界の中で人間はどう生きるべきだろうか、という問題に向く。
それに対する回答を、ポール・オースターは用意している。54ページの真ん中あたりだ。シドニーは、自分が理想とする人物像を語る。おそらくこれは、オースター自身が理想としている人物像なのだろう。多くの特徴が挙げられる中、その一つに「ユーモアのセンス、人生の皮肉を楽しめる目、世界の不条理さを認める能力」とある。そう、「ユーモアのセンス、人生の皮肉を楽しめる目、世界の不条理さを認める能力」があれば、唐突で無意味な世界の中でも生きていけるのかもしれない。
この作品には希望が提示されている。
僕の宝物になるかもしれない一冊だ。
 
最後に。
本書は、オースターらしく、幾重にも重なる入れ子構造で構成されているので、オースターファンは楽しく読めるだろうし、慣れない読者にとっては、前半部分で頭が混乱するかもしれない。けれど、そんな混乱は気にならないくらい、興味深い物語が次々飛び出す。
オースター作品によく登場する小道具(写真、色のついたノート)や、よく登場するシーン(大量の本を燃やすシーン)が本書でも描かれるので、ファンはニヤリとしてしまうかもしれない。
また、作家がどんなふうに小説を編みあげていくのかという創作プロセスについて本書の随所で語られるので、創作プロセスに興味のある人や、まさに作家を志している人にも面白いだろう。