メモ:慢性的な病状と不安と恐怖

自分のために、メモを残しておこう。

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6年前から、断続的に腸が痛い。毎日、毎日、毎日。
この痛みは、ずいぶん律儀に、毎日やってくる。
6カ所の病院で7人の医師に診てもらったが、結局、原因も治療法も分からぬまま。数カ所の大学病院で内視鏡検査をしても、原因を見つけることはできなかった。
  
  

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腸のルートは主に、上行結腸、横行結腸、下行結腸という三つのパートで構成されている。その三つが、コの字型をつくっている。
6年以上前、痛みに悩まされ始める以前には、自分の身体のどの部分に腸が存在するのかなど、まったく知らなかった。しかし、今ではハッキリと分かる。特に、下行結腸の位置は、皮膚の上からでも「この場所だ」とハッキリ指すことができる。痛みのおかげで。
  
  

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「今日は、あの痛みと不調がいつやってくるのか」。そんな短期的な不安。
そして、「いつまでこうして仕事を続けていくことができるのか」。そんな長期的な不安。
日々、この二つを考えざるをえない。考えても仕方がないけれど、考えざるを得ない。いや、気づけば、頭が勝手に考えている。
この巨大な不安と恐怖は、四六時中、僕の頭上に暗雲のように留まり続けている。どれほど快晴で爽快な日であろうと、どれほど幸せな時間を過ごしている時であろうと、一瞬たりとも頭上からこの暗雲が消え去ることはない。
  
  

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注意力や集中力の4〜6割くらいは、常に身体の状況に向けねばならない。痛みに耐えるために、集中力とエネルギーを奪われる。そして、「どのタイミングで薬を飲むか」「ここで痛くなった場合、休む場所はあるか」「痛みで動けずに完了できなかった仕事はどの時間に振り分けるか」「いつまた動けなくなってもいいように、調子がいい今のうちにできる限り作業を前倒して進めておこう」といった算段。それらをはじめとする無数の項目に関して、日々注意を向けなければならない。
ある研究者がこんな主旨のことを言っていた。「障害や病気を抱えている人にとっては、生きることそれ自体が一つの労働である」。まったくその通りだ。膝を打った。僕なんかに比べ、もっともっと大きな病気や障害を負っている人が世界中にたくさんいるはずだから、こうしてなんとか仕事を続けられているなんて、非常に幸せだと言うべきかもしれない(実際には、それぞれの人が感受している苦痛の大きさを比較することなどできないだろうけれど)。
  
     

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もし、こうなる以前のように、すべての注意力と体力を仕事に注ぐことができたなら、いったいどれほど仕事の量と速度と密度を向上させられるのだろうか。仕事以外の場面でも、どれほど多くの場所に行き、どれほど多くの人に会い、ダイナミックに生きられるだろうか。そう思うと、悔しさと怒りがこみ上げてくる。けれど、その怒りをぶつける先はない。
病気や障害がなぜある人には降りかかり、ある人には降りかからないのか。その理不尽さにどういうスタンスで向き合えばいいのか。これらは、病気や障害を持った人が何度もぶつかる問いではないだろうか。
その問いに対する答えは、「甘受する他ない」。その答えしか今は見つからない。
なぜなら、おそらく病気に理由など無いからだ。たしかに、ごく一部の病気には因果関係が見い出せるかもしれない。例えば、「喫煙量が多かったので肺癌になった」といったように。しかし、この例ですら、「なぜ同じ喫煙量の人間のうち、ある人は肺癌になり、ある人は肺癌にならないのか」といった理不尽さに答えていない。
世界中を見渡せば、不幸にして、20代で白血病で亡くなってしまう人や30代で癌で亡くなってしまう人が無数にいる。彼らの誰もがきっと、何百回も「なぜ自分が」と自問するだろう。けれど、彼らに何か責任があるだろうか。ないはずだ。人は、「○○○したから、○○○という病気になった」という因果関係で説明したがる。因果関係は、人間に備わった認知パターンだから、仕方がない。でも、そこには因果関係などない。少なくとも、人間の観察の精度では、病気に関する因果関係など見い出せない。(最近は、あるDNAパターンを持つ人はある病気に罹る可能性が高い、などと予測できるようになりつつあるようだから、病気に関する因果関係が解明されつつあるかもしれない。ただし、それでもなお、「なぜ私がそのようなDNAパターンのもとに生まれてしまったのか」という最終的な理不尽さは解明されない。)
 
  

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6年以上前、まだ腸の痛みを知らない頃、自分がどんなふうに世界と向き合っていたのか。どんな精神状態で毎日を過ごしていたのか。注意力と体力は何に振り分けられていたのか。もうほとんど忘れてしまった。
   
身体の苦痛は、家族ですら、理解するのが難しい。この苦痛が、どのような種類の痛みなのか、どのような形で人生を破壊するのか、どのような思考や感情を患者にもたらすのか。それらはおそらく、患者本人にしか分からない。なぜなら僕自身、おそらくこの病気になる前に、もし患者からこの症状について聞いたとしても、意味がよく分からなかっただろう。せいぜい「ふ〜ん、そんな症状があるのか。大変だなあ」と思う程度だったろう。
そんなものだ。それでいい。身体の苦痛については、家族ですら理解するのは難しい。いや、家族だからこそ、家族内のメンバーの病気という事実を否定したい気持ちが働き、その気持ちが「メンバーの苦痛の内実を理解してみよう」という発想を妨げる。
僕は、幸いにも、理解し支えてくれるわずかな人たちのお陰で、何とか生きる原動力を保っている。その人たちの支えがなければ、今こうして生きていたのかどうかも怪しい。感謝してもしきれない。
   
   

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そうした支えと、そして、数種類の薬の支えで、なんとか仕事をすることができている。
薬は、自分の症状に合うものと合わないものがあるし、副作用が大きいものもあるので、少しずつ飲みながら、効果があるか試していく。その繰り返しで、何度かに一回、自分に合う、効き目の良い薬に出会うことができる。それらの薬を組み合わせて飲み、日々をしのいでいく。
薬を飲むタイミングも重要だ。重要な仕事の予定から逆算して、「前夜にこれを飲み、2時間前にこれを飲み、1時間前にこれを飲む」といった具合に、段取りをしておく。それで完全に痛みや不調が抑えられるわけではないが、試行錯誤をしながら、高い確率で抑えられる段取りを自分で見つけ出していくしかない。この段取りを見つけ出す作業は、自分の身体を使って自分自身でやるしかない。
特に、強い薬は、扱いが難しい。飲むタイミングを間違えて、「食事の直後に飲むはずが、だいぶ後になって飲んだ」「夕方に飲むのを忘れ、夜遅くに飲んでしまった」といった失敗をすると、あまり効かなかったり、むしろ別の不調を引き起こしたりする。
   
    

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日々、不意に襲ってくる腸の痛みとどう向き合うべきか。
よくこんなことを言う人がいる。「気にしなければいい」と。しかし、そういうレベルの話ではない。もし、あなたの横に、強烈な頭痛で寝込んでいる人がいたら、あなたは「気にしなければいい」と言うだろうか。
一般に、腸の痛みは、ストレスや精神状態と因果関係があると言われる。しかし、その見方は間違っているのではないかと感じる。あくまで素人考えだけれど、こういうことなのではなかろうか。「腸の痛み」と「ストレス」には因果関係はなく、むしろ、両者はともに何か(例えばセロトニンが減少している等)の現象の結果である。
更に言えば、実感としては、「腸の痛み」と「ストレスや精神状態」には、ほとんど関係がないのではないかと思う。なぜなら、数週間に渡り休養し、仕事から解放されリラックスしゆったり過ごしてみたこともあったが、それでも、まったく状態は改善される気配がなかった。
     
   

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6年間、人生は宙吊りのままだ。物事を大きく前に進めることができない。次の一歩を踏み出すこともできない。この状態がいつまで続くのか。数カ月先、数年先の未来を想像すると、そこは漆黒の闇で塗り潰されている思いがして、何も予測ができず、不安と恐怖で押し潰されそうになる。
   
   

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仕事で少し大きな用事が入りそうだ。良い機会だ。それに耐えられるところまで、身体の状態をコントロールできるか挑戦しよう。それができれば、宙吊りだった人生を少し前に進められるかもしれない。もし無理なら、もう仕事はできないということだろう。仕事ができなければ、生活は成立しない。それまでだ。
最後のチャレンジだと思って、何とかしよう。何とかする他ない。
   
    
    
   

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最後に。
この文章の目的は、二つ。
一つは、未来の自分に向けたメモ。
もう一つは、同じような状況で苦痛とともに暮らしている人が、このメモを見てくださり、少しでも共感できる部分があったりして、いくらかでも気分が楽になってくれたら嬉しい、と考えたから。