『ガラスの街』

『ガラスの街』(ポール・オースター/新潮社)を読む。
(ネタバレになるかもしれないので、未読の方は御注意ください)

ニューヨークを舞台にした、虚実が入り混じったような小説。とても気に入った。

誰が観察しているのか、誰が観察されているのか。誰が書いているのか、誰が書かれているのか。読む人が、ガラスケース越しに人々を観察しているうな気分になるから、「ガラスの街」なのか。それともこの小説が、反射と透過を繰り返して虚実を曖昧にさせるガラスという物質とよく似ているから、「ガラスの街」なのか。

探偵小説を装っていながら、大した事件は起こらない。私的言語や絶対的な唯一の言語は可能かという言語哲学風のエビソードに触れるも、特に進展はない。登場人物たちは霧消してしまい、宙吊りな読後感が残る。

どうやら言語に関する話題や、「私の境界はどこにあるのか」という自我に関する話題をモチーフにした小説であるように思える。
探偵の真似事をしている主人公の作家クインが、話の終盤で、全財産をはたいてまで依頼人と犯人候補者を見張り続けるのだが、彼らはとっくに消えている。ちょっとこじつけて考えればこの状態は、シニフィエ(指し示されるもの自体)は消えてしまったのに、シニフィアン(指し示すもの、名前、単語)だけが宙ぶらりんに残ったままになっている状態と考えられる。作中で登場人物の一人が、壊れた傘について「かつては傘であったかもしれないが、いまは別の何かに変わったのです。にもかかわらず、言葉は変わらぬままです」と語るシーンがあり、このシーンも同じ事態を指している。(125ページ)

とかなんとか、いろんなことを考えるきっかけを与えてくれるが、そんなことを考えなくても、この小説はとにかく意外な展開の連続で、読んでいる時間それ自体がエキサイティングに読者を楽しませてくれる。小説という形式を通してしか喚起されない感覚が刺激された気がする。