『解錠師』(スティーヴ・ハミルトン/ハヤカワ文庫)を読む。

強烈に引き込まれた。
分厚い長編だが、後半は一気に読んでしまった。読まれる方には、週末や連休など、時間のある時に読み始めることをオススメしたい。


 
主人公の青年マイクルは、二つの才能を持っている。一つは、絵を描くこと。もう一つは、鍵を開けること。金庫破りだ。
どんな才能を持って生まれてくるか、人はそれを自分で選ぶことはできない。そして才能はときに、その人に幸せや、あるいは面倒なことを運んでくる。マイクルのこの二つの才能も、マイクルに幸せや不幸をもたらす。才能や運命やタイミングに翻弄されるマイクルを見守るだけでもハラハラドキドキだ。
ただしマイクルは、ある惨事が理由で、心を閉ざしている。そして、言葉を発することができない。つまり、心を閉ざしたが、そのかわりに、鍵を開く能力をもっている。言語表現を失ったが、そのかわりに、絵画表現の能力を持っている。まるで、失った能力を別の能力で代替しているかのようだ。(ところで、この設定を読んで、ニコラス ハンフリーの著書『喪失と獲得』を一瞬思い出した。この本には確か、原始人が、言語能力を得たら、それと引き換えに、壁画を描く能力が低下したというような面白い研究結果が書かれていた)
 
この小説には、様々な要素が詰め込まれている。恋愛、成長、サスペンス、犯罪、仕事論。いろんな要素が。
何度も登場する、金庫や錠前を開けるシーンも本作品の魅力の一つだ。詳細な解錠方法や解錠師の精神状態が具体的に描写されている。
 
それにしても、なぜ本書は、私たち読者をこれほどマイクルに感情移入させるのか。
一つの理由は、一人称で書かれていることだろう。けれど、一人称で書かれた小説など無数にある。
本書には、もう一つ、シンプルながら巧みな仕掛けが設定されている。それは、マイクルが言葉を発することができないということだ。マイクルは、目の前で起こる出来事を見たり、相手から言われた言葉を聞くことはできるし、心の中で独り言をつぶやくこともできる。しかし、周囲に向けて一言も言葉を発することができない。マイクルはいつも受動的な立場に置かれている。そう、この状況はつまり、この小説を読んでいる私たち読者ととてもよく似た状況なのだ。そのせいで、私たちは、本書を読み始めた早い段階で、マイクルの立場に強くシンクロしてしまう。まるで、マイクルの脳の中に自分が入ってしまったかのようだ。
著者がどのくらいその効果を狙ったかは定かでないが、失語症というシンプルな仕掛けは、本書において、絶大な効果を発揮しているように見える。
 
さんざん褒めておきながら、あえて難を言えば、本書のところどころに、整合性の取れないようなご都合主義の展開も見受けられる。例えば、用心深く理知的な犯罪者であるジュリアンが、いい加減な犯行計画に簡単にのるのは不自然だ。マイクルが、奇跡的に難を逃れて一命を取り留めるといったシーンも、安いハリウッド映画のようだ。だけど、そんなご都合主義も気にならないくらい、本書はあなたを惹きつけるだろう。
 
最後に。
この小説を読み終えて改めて感じたのは、次のような点だ。
人生には、振り返ってみれば、「あのときもし〜〜していれば」という分岐点のような瞬間がある。いや、あるように思える。マイクルならば、そもそも、もし友人にそそのかされて他人の家に忍び込んだりしなければ、、、と。しかし、その過ちばなければ、最愛のアメリアに出会うこともなかったのだ。
また、持って生まれた才能というものも、分岐点に少し似ている。もし解錠の才能なんて持っていなければ、、、と。しかし、その才能がなければ、マイクルは生き延びることすらできなかったかもしない。
私たちはみんな、「生まれ持った才能」や「人生の分岐点」を持っている。けれども、才能や分岐点が私たちに何をもたらし、私たちから何を奪ったのか。私たちに幸福をもたらしたのか、それとも不幸をもたらしたのか。どうにも判別し難いのである。

解錠師 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

解錠師 (ハヤカワ・ミステリ文庫)