『クライマーズ・ハイ』

■『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫/文春文庫) を読む。

1985年に起きた日航機墜落事故を取材する地方新聞社を舞台にした小説。
会社組織、家族、報道倫理などなど、いくつものテーマが描かれており、読む人によっていろいろな楽しみ方ができそう。

全体を俯瞰してみると、この小説は、“当事者として生きるとは、どういうことか”について書かれているように思える。
たとえ数百人もの人が無惨な死に方をしても、取材する新聞記者にとってその事故は、どこか他人事だ。調査する警察にとってもどこか他人事だろう(そうでなければ、むしろ新聞記者や警察の仕事なんて務まらない)。おそらく、遺族や日航の一部の社員以外の人間にとって、その事故は他人事だろう。

僕たちが生きる毎日の生活の中でも、やはり、ほとんどの出来事は他人事だ。

しかし、ときに、当事者になる瞬間がある。ある出来事と自分が無関係でいることができなくなり、自分はそこから逃げられなくなる瞬間だ。
本書の主人公である悠木和雅(日航機事故のデスクを務める新聞記者)も、いろいろなことをどこか他人事として客観的に処理して過ごす。日航機事故のことも、自分の息子との関係のことも、死んだ部下のことも。
けれど、遺族(日航機事故の遺族、死んだ部下や同僚の遺族)との接触などをきっかけに、そうした問題と、他人事としてではなく、当事者として向き合う時間を得る。そして、いったん当事者になってしまうと、悠木の感情は高ぶり、ときに冷静な判断力も揺らぐ。同時に、当事者になると見落とすものがある一方、当事者にならなければ見えないものもある。さらに、当事者になると、みっともなくてカッコ悪い行動をしてしまう。当事者として生きるということは、傍から見ると、おそらくみっともなくてカッコ悪いのだ。しかも、報道に携わる人間が、取材する出来事の(心理的な)“当事者”となるのは、決していいことではないだろう。

山登りにおいて、あるいは仕事において、悠木はいつも、上る(登る)時も下りる(落ちる)時も、決してかっこよくない。どこか中途半端で、みっともないのだ。かっこよく颯爽な行動ができず、迷い逡巡しながら、自己保身を考えたり、決断ができなかったり、いつまでも後悔したり、何かにしがみついてしまったりする。
たぶん、当事者として生きるとは、そういうことなのだ。

作者は、そういう生き方を、良いとも悪いとも言っていないように思える。ただただ、そういう生き方があると提示している。

では、なぜ、当事者として生きる悠木の姿に、読者は(少なくとも僕は)落涙しそうになるのか。それは、日常生活で読者が(少なくとも僕が)、当事者として問題に向き合うケースが非常に少ないからだ。

もう一つ僕が気に入ったのは、「距離」の描き方。
悠木は、人との距離も、あるいは自分が欲しいと望むものとの距離も、いつもうまく縮められない。
息子との関係も、せっかく掴んだ記事ネタも、友人との登山の約束も、迷い逡巡しながら、いつもぎりぎりのところで機を逃す。
けれど、タイミングを逸したように見えて、あるいは、何かを失ったように見えて、一方で、知らずのうちに悠木は何かを手にしている。
“長い時間や膨大な労力を掛けて手に入れたものでも、手放す瞬間や失う瞬間は、一瞬なのだ”という当たり前の事実の重さを感じさせる。

あと、仕事柄、個人的には、取材現場や紙面製作の現場の躍動感にも興味を持った。
僕はこういう小説がとても好きだ。それは、根本的に、生きることを肯定しているから。

おすすめです。

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)