『不気味な笑い』

『不気味な笑い』(ジャン=リュック・ジリボン/平凡社)を読む。
コンパクトな本だが、抜群に面白かった。
以前から気になっていた「どういうものに出会ったとき、人は笑うのか」「笑ってしまうようなおかしさとは、どういう状況のときに成立するのか」について、クリアな説明がなされていた。

キーワードは「機械的」と「枠」。これらのキーワードを使って、滑稽さが生じる理由と、滑稽さと不気味さが紙一重であることを論じている。滑稽さのすべてを説明できるわけではないが、かなりの部分を説明できているように思える。

抽象的な記述も多く、本書のすべてを理解できたわけではないが、理解できた範囲で僕なりの例で表現してみると、以下のような感じ。
例えば仕事のときにスーツをビシっと着て手帳を持って歩いていてもまったく滑稽ではなく、ごく自然である。なぜなら、ビジネスという「枠」の中で行動しているから。
ところが、サッカーの試合中にグラウンドで一人だけスーツをビシっと着て手帳片手にプレーしていたら、これは滑稽である。なぜなら、全員がサッカーという「枠」の中で動いているのに、その一人だけがビジネスという「枠」の中に「機械的」に従って行動しているから。
つまり、見てるいる人は、サッカーという「枠」とビジネスという「枠」、この二つの枠を参照しながら、そのズレと、ズレた枠に機械的に従っている非人間性を見て、笑うわけだ。
本書23ページの税関スタッフの小話は、ある枠に機械的に従って行動してしまうがゆえに、現実の状況の枠とズレてしまう場合の滑稽さを端的に表している。

ところで、上の例のように、見る人が二つの枠を認識できている限りにおいては、滑稽で済むのだが、片方の枠が認識できないと、たちまち滑稽さが消えて、不気味になる。
例えば、サッカーの試合中に、一人だけがグラウンドの真ん中で白装束に着替えて、お祈りの儀式を始めたら、それは不気味である。なぜ滑稽ではなく不気味なのか。それは、白装束でのお祈りが、いったい何の枠に基づいているの不明だからである。簡単に言えば、意味が分からないからである。
つまり、枠とは、ある言動に意味を与える意味システムのことだ。

そして、ここで、対象に親しみがあるかも重要だ。僕たちは、スーツには親しみがあるが、白装束には親しみがない。例えば、友人に一日の間に3度遭遇してしまったら、その機械的な遭遇のパターンが滑稽でお互いに笑ってしまうだろうが、まったくの他人に一日の間に3度遭遇してしまったら、ちょっと不気味である。

ちなみに、反復や誇張によるジョークが面白いのも、人間を機械的な振る舞いをしているからだ。

そんなわけで、「おかしさの条件」と「おかしさと不気味さの境界」を解析してくれる本書はエキサイティングだが、この知見をもとに、さらに「機械性」や「枠」とは違う笑いのシチュエーションもあるのか考えてみたい。

そうえいば、不気味さに関する記述を読んでいて、数年前に話題になった映像アート「ワラッテイイトモ」を思い出してしまった。

どうして人が笑うのかについて興味のある方にはぜひおすすめの一冊です。


【追記 12:52 2010/05/09】
考えみたら、本書で分かったのは、「どうして人が笑うのか」ではなく、「どのようものを見たときに人は笑うのか」についてだ。「そのようものを見たときに人はなぜ笑うのか」については、依然として分からない。それが次の課題。その課題は、生物学とか脳科学とか、もっと物理的な範疇かもしれない。


不気味な笑い フロイトとベルクソン

不気味な笑い フロイトとベルクソン