『善人ほど悪い奴はいない』(中島義道/角川oneテーマ21)を読む。

「叱り芸」「罵倒芸」と言える著者の芸風は、相変わらず安定しており、中島ファンには気持よく読める一冊。
 
ツァラトゥストラ』などニーチェの著作と伴走しながら、現代日本に跋扈する「善人(弱者)」を糾弾しまくる。
ここで言う「善人」とは、自己保身と欺瞞に満ち、弱さを言い訳にして、弱さの上にあぐらをかいて、自助努力を一切しないくせに、それでいて、社会や強者に対して「私は弱者なのだから、私を憐れんで、私を保護しろ」と要求する傲慢な人々である。そして、善人は、既成の価値観や「みんな」の意見にほぼ無自覚に隷従し、同調圧力に簡単に屈服する。善人は、他人から批判されることを異常に恐れ、他人から批判されたくないために、他人を批判することもない。同様に、自分が他人から優しく保護されたいために、自分も他人に異様な優しさを示す。善人は、自らの共同体に対立や波風が発生することを恐れ、全力でそれらを回避する。だから、自分の属する共同体に異分子のような人が混入することを嫌い、異分子を排斥する。
善人は、社会の風通しを悪くするだけでなく、ときにヒトラーのような人物にあっさり扇動される。
 
僕自身、飲食店の接客、鉄道会社のアナウンス、身近な人づきあいなどにおいて、溢れかえる善人に同様の不快感と嫌悪感を感じてきたので、本書の内容に全面的に賛同。何度も膝を打った。それゆえ、本書から新しい知見はあまり得られないわけだが。
ただ、僕自身も、自分の中に巣食う善人の側面を日常生活のふとした瞬間に感じて日々自己嫌悪を覚えているのだが、そうした瞬間の数々を想起しながら本書を読んだ。
善人の対極にある存在は「超人」だが、ニーチェ中島義道も超人ではない。超人は理念である。だから、とても人間的な「善人」たる要素を多分に抱えながら、少しでも「超人」に近づくように日々生きていくことだけが可能だ。そう思えたことが、本書からの一番の収穫だったように思う。
 
本書の終盤で、ニーチェの著作や手紙に触れながら、こうした著作を書いたニーチェはどんな性格の人間であったのかについて、著書の推測が披露されていて面白い。
また、著者は、善人の振る舞いの例として「2ちゃんねる」に何度も言及しているが、著者が憤りながら「2ちゃんねる」の画面を眺めている光景を想像すると、ちょっと微笑ましい。
ところで、現代の若い「善人」は、メイドカフェなどに高密度に群生しているので、「善人」のニュアンスが実感できない人は、メイドカフェへ行ってみるとよいかもしれない。

ぜひ「善人」の人々にも読んでいただきたいオススメの一冊だが、この本を手に取る人は、おそらく「善人」ではないだろう。