『建築の解体』(磯崎新/鹿島出版会)を読む。

 
 
 
なんと濃密な書だろう。発刊から40年近くを経た書物ですが、いま読んでも抜群に面白い。脚注の一つひとつまで充実しており、恐ろしい密度です。
近代建築と現代建築に関する基礎的な予備知識がないと読みにくいかもしれませんが、文章自体は明快で、建築を専門としない他分野のクリエーターの方々も楽しむことができそうです。
 
「一九六八年の建築情況」という副題のとおり、1960、70年代頃に著者が感知していた同時代の世界的な建築思潮を記述した本です。
言及されるのは、ハンス・ホライン、チャールズ・ムーア、セドリック・プライス、クリストファー・アレグザンダー、ロバート・ベンチューリ、スーパースタジオ、アーキズームら、著者と同年代の建築家たち。一見、彼らのプロジェクトはバラエティーに富んで見えますが、著者は、この7組の建築家の仕事に子細に触れながら、彼らの考え方に共通性を見い出します。それは、一言で言うと「曖昧性(アンビギュイティ)」。
では、60年代以前の建築は、「アンビギュイティ」ではなく、どんな素質を備えていたのか。それは、明快さ、一貫性、確実性、計画性などです。
 
つまり本書は、60年代以前の建築(仮に近代建築と呼んでおきましょう)と60年代以降の建築(仮に現代建築と呼んでおきましょう)との対比の中で、後者の特質を描き出しているわけです。
両者の対比をキーワードで図式的に押さえておくと、本書を読みやすくなりそうです。本書の中に、ヴェンチューリの著作から二つの比較表が引用されています。「308ページ」と「326ページ」。前者の表は建築に関して、後者の表は都市に関して、近代建築家と現代建築家のアプローチの違いを対比的に整理しています。
 
では、なぜ60年代を境にして、建築家が設計する建築が明快さを失ってアンビギュイティな建築へと変化したのか。その理由は、著者によれば、「主題の喪失」のためです。
近代建築は、「テクノロジー」「機能」「機械」が基本的な主題でした。ところが60年代以降、その主題は達成されてしまい、主題は不在となりました。そのあたりの流れが、本書の最後の「393〜399ページ」にコンパクトに明快に書かれていますから、本書を読もうかどうか迷っている方は、まず「393〜399ページ」と先述の二つの比較表を眺めてみて、それらの話題に興味が持てそうなら、本書を読んでみるとよいかもしれません。
 
さて、では、本書から何を学べるでしょうか。あまりにも多くのことが学べると思いますが、今の私にとって大きな収穫となったことを、次の2点。
一つ目は、建築を通して時代性を読み解くこと、あるいは、同時代の建築に何らかの共通性を読み取ること。その作業の参考になりました。
二つ目は、現在多くの建築家やデザイナーが提唱する「不確定な出来事に対応できる可変性」「多様性」「システムをデザインする」「オブジェクト的建築の否定」「デジタルディスプレイが建物を覆う」といったコンセプトは、既に50年前の建築家らによって考え尽くされていたという点。
 
その他、興味深かったのは、セドリック・プライス(1934年生まれのイギリスの建築家)に関する記述です。後に磯崎氏が仙台のコンペで審査委員長として提示した「メディアテーク」というビルディングタイプに通ずる世界観が描かれているように見えます。プライスが描いた計画案「ファンパレス計画」は、エンタテインメント機能が中心ですが、メディアテークと呼んでもよさそうな性格を持っています。
 
それにしても、一見異なる作風で設計をしているかに見える同時代の建築家たちを、このように明快に「建築の解体」という一つの軸に位置づけた磯崎氏の洞察力と博識に感服です。おこがましいですが、自分には一生かかってもこんな仕事できないだろうと感じますが、それでもつねに、いつかこんな仕事をしたいと思います。本書は、そのような、遥か遠く僕の視線の先で輝く目標の書の一つであります。

建築の解体―一九六八年の建築情況

建築の解体―一九六八年の建築情況