『はじめての言語ゲーム』

■『はじめての言語ゲーム』(橋爪大三郎講談社現代新書)を読む。
前半は、ウィトゲンシュタインの半生や思想をたどりながら言語ゲームとはどんな考え方であるかを解説する。後半は、キリスト教や仏教を俎上に上げて、実際に言語ゲームの考え方を運用してみせる。

言語ゲームとは何か。本書によれば、「言語ゲームは、私たちが言葉を用いることを可能にし、私たちが住むこの世界を成り立たせていることがらそのものである」。「言語ゲームとは、ふるまいの一致のこと」。そして、「社会は、言語ゲームの集まりである」。「この世界は、無数の言語ゲームからなっている」と説明されている。
例えば、貨幣なども言語ゲームの一種と言ってよさそうだ。日本では、日本銀行が発行したこの「1000」と書いてある紙きれを1000円という価値を持つ存在として使いましょう、というルールにみんなが合意し、実際にそのようにふるまっているから貨幣が機能している。同じく、別の国では別の言語ゲームに支えられた貨幣が機能している。それら異なる言語ゲーム同士の間を行き来する場合は、為替相場でゲーム間の調整ができるようになっている。
  
言語ゲームという考え方自体は、それほど難しくないように思える。むしろ、使ってナンボなのだ。
著者の場合は、言語ゲームの発想を使って、宗教や憲法を研究している。特に著者は「それら言語ゲームの規則(ルール)と規則(ルール)の関係は、どのようになっているのか」に興味を持っているようだ。だから、宗教、憲法構造主義などは格好の研究対象と言える。
  
また著者はこう書く。「誰でもある言語ゲームの内的視点に立たざるをえず、立ったからには、そうした同一視(そのゲームに固有の信念)がうまれる」。確かにそうだ。けれど、少なくとも、「同一視がうまれてしまいやすい」という事実を理解しておけば、「固有の信念」に閉じ込められることなく、いつでも「内的視点」から「外的視点」へ足場を移して考えることができる。
 
ところで、物事を言語ゲームとして捉える思考法は、一般の人の生活に役立つのだろうか。僕は、役立つと思う。例えば、文化的背景を異にする中国やイスラム圏の人々とも、互いの属する文化(言語ゲーム)を根気よく比較してみることで、互いに寛容になったり、新しい言語ゲームを生み出したりできそうだからだ。
むしろ警戒すべきは、周囲に他の言語ゲームが見当たらず、単一の言語ゲームの中に閉じ込められてしまったときだと思う。外部が見当たらず、外的視点に足場を移して考えてみることが難しいときだ。本書の終盤でも少し言及されているが、今日の資本主義経済はそれに近い状態かもしれない。資本主義経済から別の言語ゲームへ抜け出る発想については、『世界史の構造』(柄谷行人)などからヒントを得られそうだ。
  
なお、本書を気に入った人は、同じ著者の『はじめての構造主義』『ふしぎなキリスト教』もおすすめ。

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)