『関係する女 所有する男』

『関係する女 所有する男』(斎藤環講談社現代新書)を読む。
得るところの多い一冊だった。
著者は、ジュディスバトラーの言葉を引用して、セックスはすでにジェンダーだという(P.46)。つまり、「男/女」という区分け自体が、もともと恣意的で差別的だというわけだ。今まで気付かなかったが、このスタンスには大変共感する。
「白人/黒人」という人種差別を例にして考えてみれば、分かりやすいかもしれない。「白人/黒人」や「男/女」という線引きを設定するとき、線引き以前に、あるいはそれと同時に、差別は生じている。では、なぜこの恣意性は、人種差別問題では分かりやすいのに、性差別問題では分かりにくいのだろうか。おそらく、「白人/黒人」という人種の区分けは幾通りも設定できそうに思えるが、「男/女」という区分けは一通りにしか設定できないように思えるからではなかろうか。だから、「男/女」という区分けは、疑いの余地なく絶対的で生得的な感じがするのだろう。

著者は性差意識の存在を説明した上で、ジェンダーというカテゴリーを消去するのではなく温存しつつ、しかし、そのカテゴリーの幻想性やマイナス面に敏感になり、そのカテゴリーによって被差別者が不利益を被らないようにしようと提唱する。その態度を著者は、「ジェンダーセンシティブ」と呼ぶ。そして著者は、原理主義的なフェミニストたちは、ジェンダーというカテゴリーまで消去しようとした点で間違っていたと批判する。

差異を消去し(たように見せ)て、“はい、差別はなくなりました”と嘯くのではなく、どうしようもなく存在してしまう差異と、差異から導出されてしまう差別を直視しろ。その上で、悩み続け、できる限り不利益を被る人を減らす社会をつくっていこうというわけだ。その「ジェンダーセンシティブ」というスタンスは、中島義道の差別論(『差別感情の哲学』講談社)にもどこか共通していると感じた。ただし、中島は“悩み続けろ”という主張に重きを置いているのに対し、斉藤は“不利益を被る人を減らそう”という主張に重きを置いている。ここに、理念や自省を重視する哲学者と、現実性(例えば、真実を追求することよりも、患者がひきこもりを脱して社会復帰できることを最優先して治療する現実性など)を重視する医師の違いが出ているようで興味深かった。

後半は、「ひきこもり、摂食障害」「おたく」「やおい」「母娘関係」などを例に、「関係する女 所有する男」という考え方を補強していくだけなので、それらの事情にさほど興味がなければ、「一章」「二章」「終章」の三つを読むだけでも十分かもしれない。

ところで最も収穫だったのは、物事の全体を俯瞰して抽象化して把握し尽くしたいという僕の欲求が強烈な所有欲に根差している、と気付かせてくれたこと。だから、「関係する女 所有する男」という包括的な原理で大変多くのことを一挙に把握し尽くせるという快感は、僕の所有欲を大いに満たしてくれた。