「エッセンシャル・キリング」

■映画「エッセンシャル・キリング」(イエジー・スコリモフスキー監督/2010)を見る。
男(ヴィンセント・ギャロ)は、ただひたすら逃げる。シンプルなストーリーの中に、緊張感が漂い続ける。
おそらく観客は心の中で、「逃げても、行くあてもないだろうに、おまえはいったいなぜ逃げ続けるのか。いったいどこへ行く気なのか。いったいいつまで逃げ続ける気なのか」とつぶやきながら、この男の逃避行を見ていたのではないか。
 
この男は誰だろうか。冒頭の服装や時折見る夢から推測すると、イスラム教徒のように見える。けれど、終盤でいったん死んだかに見えて復活するあたりは、イエス・キリストだろうか。それとも、祖国を失って流浪の民となっているあたりは、ユダヤ人だろうか。それとも、必要なものだけを本能的に手に入れていくあたりは、原始人だろうか。
 
また、この男は終始、passion(受難)とpassion(受動)を持っているが、passion(感情、情熱)は持ちあわせていないように見える。言葉を発することはなく、表情もほとんど変えない。
 
そして、この男は、冒頭で中東の砂漠らしき場所にいた時間以外は、終始、他人の服を着ている。つねに、他人から奪った服や他人に着せられた服を着ている。
 
鑑賞後の気分は、ヨーロッパの聖堂で壁に描かれた宗教画を観た後の気分に似ていた。「とても美しい作品だったが、いったい何を意味していたのだろう」と。