映画「精神」(想田和弘監督、2009)を見る。

とても素晴らしいドキュメンタリー映画
この映画に登場する精神科医の山本先生と、そして出演を承諾した患者さんたちに最大限の敬意を表したい。そして、先生や患者さんたちと強い信頼関係を築きながら、感情移入し過ぎることなく冷静な距離感で作品を撮り切った想田監督の力量も高く賞賛したい。
一度観ただけでは消化しきれなかったので、半年くらいおいて、もう一度観たい。
 
この作品を見ながら、頭に浮かんだイメージがある。生態学者のグレゴリー・ベイトソンが、「個」と「類」の振る舞いに関する話の中で挙げていた「鎖」の喩え話だ。鎖を強く引っ張ると、鎖はどこかで切れる。しかし、その鎖を構成する輪の中のどの輪が切れるのかを事前に予測することは難しい。切れた後で初めて、その鎖の中でその輪が相対的に最も脆弱だったと判明する。確かそんな話だった。
統合失調症などで精神を患ってしまった人は、この「切れた輪」のように見える。では、「鎖を引っ張った強い力」は、現実社会で言えば何だろうか。いろいろありそうだ。極度に効率化された社会における効率性への強制力。社会に蔓延する同調圧力。地縁や血縁をベースにした人間関係の希薄さ。まだまだありそうだ。
では、輪の脆弱性は、個別の輪の責任だろうか。つまり、精神を患うことは、個人の責任だろうか。この映画を見ると、そうとは言えないように思えた。親子関係など人間関係の影響が小さくないようだ。でも、どの親の元に生まれるかを子供自身が選ぶことはできない。あるいは、生まれ持ったストレス耐性が低かっことが理由だろうか。けれど、これも本人には選択できない(もちろん本人の責任でないとはいえ、患者本人の自助努力も必要だろう)。自助努力だけで解決するのは難しそうだ。
 
本人の責任か、あるいは社会の責任か。本人に全責任を帰することができないならば、社会にも責任がありそうだ。だから、社会で責任を取ったりフォローしたりすべき問題だ。
では、社会って、具体的には誰のことか。すぐ思いつくのは二つ。
ひとつは、国家。これは、市町村なども含め。
もうひとつは、国家の構成員。これは、僕自身やあなた自身。
国家ができるフォローは、まず助成金の配布や法整備。けれど、この作品の中でも言及されているが、ちょうど撮影当時、自立支援医療における患者の自己負担額が増えたそうで、患者にとって大きな負担となるようだ。
では、僕自身やあなた自身ができるフォローって、何だろう。たとえば、友人や同僚が統合失調症躁鬱病になったとき、その人との付き合いを断絶してしまわないことかもしれない。いつもどおり付き合い続けることかもしれない。あるいは、何も言わずにじっくり話に耳を傾けてあげることかもしれない。その人が仕事を休みがちになったら、その人の仕事をまわりの人で分担してフォローしてあげることかもしれない。そして何より先に、統合失調症躁鬱病ってどんな病気なのかを正確に知ることかもしれない。
知るということは、偏見を取り去ってくれる。この映画を見て、そう感じた。
 
「精神」と題されたこの映画は、精神疾患に関してだけでなく、もっと大きな問題に関して、僕らに問いを投げかけているように思えた。それは、自分と異質に見えるような他人が同じ世界(たとえば、同じ職場、同じ学校、同じ地域、同じ国、同じ地球)の中にいるとき、僕らは彼らとどう共存すればいいのか、という問いだ。
この映画を見て、三つくらいのステップが必要であるように感じた。
第一のステップは、まずその他者について知ること。他者と僕らの間にあるヴェールを取り去ること。そのきっかけを、この映画が僕らに提供してくれる。
第二のステップは、どういう社会だったら、僕らと他者が一緒に暮らしていけるのかというビジョンを策定し、それを共有すること。そのビジョンに関しては、この映画に登場する山本先生の「本人の主体性を少しずつ引き出していくように援助する」という一言が大いに参考になる。この一言は、心に刺さった。そのビジョンの策定は、国家がするだけでなく、個人個人もしておくといい。
第三のステップは、そのビジョンを実現するために必要な具体的な制度や施設を整備する、あるいはアクション(身近な患者との接し方も含めて)することだろう。それに関しても、この映画からいくつかヒントが汲み取れそうだ。たとえば、山本先生の病院の民家のような独特の在り方が示唆的だ。
 
一方で、この映画は、健常者と精神疾患患者が一緒に社会を営んでいくことの難しさも感じさせる。たとえば、本作品のラストシーンが印象的だ。作業所で働く患者の一人が、仕事を終え、スクーターで走り去る。その背中をカメラが追う。彼は、赤信号でいったん減速するが、左右を見ておそらく自動車や歩行者などが来ないことを確認して、赤信号を突っ切って渡っていく。左右から自動車や歩行者が来ないのなら事故にはならないのだから、彼の行動は本質的には間違っていない。けれど、社会は、赤信号に従わない運転者を許さないし、受け入れない。
このシーンが患者を象徴しているように見えた。つまり、「自分のリズム」(道を渡りたいという気持ち)と「社会のリズム」(赤信号では止まらねばならないというルールや慣習)の間にズレが生じたとき、社会のリズムにうまく合わせられないのが、こうした患者の特徴なのではないか。
翻って、いま、社会で求められる人は、どんなタイプの人だろう。すごく大まかに言えば、以下の二つの能力を持った人だと思う。一つは、社会のリズムと自分のリズムがズレた瞬間に、自分のリズムを社会のリズムに即座に適応させることのできる調整能力。もう一つは、そうした調整をおこなう際の精神的(あるいは肉体的)ストレスによって精神のバランスを崩さない能力。この二つだ。
なぜ、これらの能力を持った人が社会で必要とされるのか。それは、これらの能力を持っていない人は、極度に効率的な現代の社会システムの効率を損ねるからだろう。現代社会は、この極度に効率的なシステムなくして稼働しない。たとえば、傷つきやす過ぎる人や、自分の意見を強く主張し過ぎる人や、精神のバランスを崩して時々会社を休まねばならない人を、社会や企業は受け入れない。いまの社会や企業は、そうした人々を受け入れる余裕もリダンダンシーも持っていない。
そこまで考えて、僕は立ち止まってしまった。どうすれば彼らと共存できるだろうか。
できれば、社会(あるいは、ひとまず自分の生活)を少しスローダウンさせて、他者と共存するためのコスト(お金という意味ではなく、エネルギーや時間という意味でのコスト)を切り捨てないで済む生活を実現したい。いま思いつくのは、そのくらいだ。当たり前だが、自助、共助、公助、あらゆるレベルで対応したい問題だ。
 
なお、この映画が好きな人には、いま銀座で公開中のイタリア映画「人生、ここにあり!」も大変おすすめ。精神に問題を抱えて社会からドロップアウトしてしまった人を、まさに「本人の主体性を少しずつ引き出していくように援助すること」というスタンスでサポートすることに関する映画だ。
 
 
その他、いくつか気になったことを箇条書きしておこう。
・印象的だったのは、登場する患者さんたちが、ものすごくクレバーに自分の病状を把握していること。もちろん出演依頼を承諾した患者さんたちは、そもそもクレバーな人たちなのかもしれない。
・そして、もちろん、この映画には映されていない部分もあること。たとえば、比較的状態が良いときの患者さんが映されている。作品に登場する患者の一人は、何年かに一度自分を制御できなくなってしまい、場合によっては犯罪的なことをしてしま可能性もあるという主旨のことを告白する。その「何年かに一度」の状態は、いったいどんな状態なのか。それはこの作品には登場しない。
・関西弁(岡山の方言のようだ)の柔らかさも、印象的だった。山本先生や患者さんの語りに独特の穏やかさやオープンネスを感じるのは、この方言の効果も大きいように感じた。
・患者さんは皆、自己肯定感の欠如や自己評価の低さに苦しんでいるようだった。
・健常者からの偏見に加えて、患者自身による精神疾患への偏見も作品の中で指摘されていた。
・他人との関係(親子関係を含む)は、精神疾患の引き金や要因にもなりうるし、一方で、精神疾患を癒やし和らげる緩和剤にもなるようだ。
・あえて言えば、DVDの特典映像はもっと少なくしたほうがよかったのではないか。説明が過剰になると、鑑賞者の多様な解釈を促すというこの作品の魅力が半減する。

精神 [DVD]

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