呉服店 取材2件 『赤を見る』

xsw23edc2008-09-19

■渋谷にて呉服店を見学。西陣織など日本の伝統技術を活かし、現代の生活にフィットする着物や家具や小物を製造・販売するお店。社長のビジョンから内装や商品までが一貫している。

■何点か書籍を購入して、帰社し、、描画ソフトの指導者さんに取材。

■その後、電話で取材日程を決めたり、編集長に相談や報告をしたり。
ところで、お返事したい大事なメールが幾つか溜まっているのだが、お返事を書けないまま、赤坂見附へ向かう。

赤坂見附にてデザイナーさん取材。模型などに関して。
そのまま引き続き、ライターの方と打ち合わせ。取材していただいた内容を聞いたり、今日の取材の要点を整理し、一緒に構成を練る。面白い記事になりそうで、ワクワクしてきた。

■『赤を見る』(ニコラス・ハンフリー/紀伊國屋書店)を読む。

よく耳にする「クオリア」という言葉の意味がわかる一冊。入門書だから、この分野に詳しい人にとっては情報量や深さにおいて物足りなさを感じるかもしれないが、そうでない人が“クオリアとは何か”を知るのならおすすめ。

特に分かりやすかったのは、“クオリアとは何か”を説明するために、“クオリアを持たないとどういう状態になるか”を例示する部分(第三章)。“クオリアを持たないと人”の例として、「盲視」という症例が参照される。
著者によれば、見たり味わったり嗅いだりして外界の現象を捉えるとき、人間には「知覚」と「感覚」の二つが生じている。「知覚」は、色や形などの事実を捉えるだけ。だから視覚に関して言えば、ひとまず「知覚」ができれば、障害物にぶつからずに歩くことはできる。一方、「感覚」は、見たものから感じる印象とかイメージ。前者は物理的で、後者は質的。
「盲視」の人は、視覚に関して「知覚」は機能するが、「感覚」が機能しない。その結果、物理的に見えているのに、本人には「見えている」という実感がない。

本書の内容から想像するに、クオリアなしに物を見るという体験は、例えば、自分と関係のない機械の分厚い取扱説明書を無理やり読ませられるような体験なのではなかろうか。つまり、文字は目に入ってくるし、ひとまず日本語として理解できるのだが、内容が「自分に関係のあるものとして」まったく頭に入ってこない状態。あるいは味覚で言えば、甘いか辛いかは知覚できるのに、何を食べても「おいしい」と感じられない世界。
だから、もし私たちがクオリアを感じることができなければ、それはとてつもなく恐ろしい無味乾燥な世界だろう。

もうひとつ刺激的だったのは、「私」という自己意識が最初にあり、その「私」が何かを感じるという順序ではなくて、むしろ「感覚」の方が最初にあって、その「感覚」を享受する意識の束が「私」なのではないか、と思わせてくれたこと。というのは、「対象を知覚しているという事態」と「私」を関係付けているのは、「感覚」だから。

結局本書は、私たちが日頃意識せず使っている認知機能を改めて見つめ直すきっかけを提供してくれる。少なくとも私にとって、それは「本書を読んだ後の自分は、本書を読む前の自分とは少し違う場所に立っている」と思える新鮮な発見であった。

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由