『「痴呆老人」は何を見ているか』

『「痴呆老人」は何を見ているか』(大井玄/新潮新書)を読む。

医療や介護に関わる方々だけでなく、すべての人に読んでいただきたい実に素晴らしい一冊。

そもそも人はみな、各人の「経験や期待」というバイアスに基づいて世界を仮構し、その安心できる「環境世界」の中で生きている。それは、痴呆老人もそうでない人も、変わらない。その意味で痴呆老人は、理解できない別世界の住人では決してなく、私と同じ地平で生きている人と言えるだろう。

著者は、日米の終末期医療業界で臨床医を務めた経験から、いくつものエピソードを通して、柔らかい語り口で、私にそう実感させてくれる。それだけで、本書は十分に価値があった。

しかし本書の真価は、〈「痴呆老人」=「私たちが日々出会う他者の一形態」〉として敷衍して読み解ける普遍性にこそある。
他者を、「私と異なる経験や思考パターンに基づいて世界を読み解く人」と捉えるなら、性別の異なる人、世代の異なる人、出身国の異なる人、職業の異なる人などなど、みんな他者で、その一形態が痴呆老人なのだと理解できる。だから、他者とのコミュニケーションを必要とするすべての人(つまりすべての人間)に御一読いただきたいと強く思う。

本書のメッセージが端的に表れているフレーズをいくつか挙げよう。
認知症の老人にかぎらず、日常の場面において、情動的コミュニケーションの方が情報的コミュニケーションより実質的な効果を示す」(P.68)。
「痴呆状態にある人々の病棟生活は、若い頃の生活の『再現』ではなく、彼ら自身が『自分で構成した虚構の現実』を今、生きている」(P.89)。
「高齢で脳の機能低下があっても、家族や地域の人々、自然などの『自分の環境』とうまく『つながり』ながら、不安などの精神的『苦痛』を感ぜずに生活をつづけていけるなら、機能低下は『老いの表現』と考えることができます」(P.163)。

本書を読んだら、きっと今後、酒席で知人があなたに自慢話をしても人の悪口を言っても、あなたはその人の話を「ほほう、そうでしたか」と穏やかにうなずきながら聞いてあげるという、柔和で受容的なコミュニケーションができるだろう。

もちろん本書には、痴呆老人のケアに関する、具体的なコミュニケーション作法についても触れられている。

高齢化社会を生きるにあたって、あるいは、他者とのコミュニケーションがギスギスしがちな今日を生きるにあたって、ぜひ御一読をおすすめします。

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)