『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹/文藝春秋)を読む。

 


読んでよかった。出会ってよかった。そんな作品でした。
私は、赤鉛筆で線を引きながら本を読みます。小説を読む時でも同様です。本書を読み終えて、見返してみると、なんと、ほぼすべてのページに一箇所以上の赤線を引きました。宝物と呼べる一冊になるかもしれません。
 
これまで村上春樹さんの作品をほとんど読んできませんでした。『ノルウェイの森』は、メタファーの設定があざといように見えて、あまり好きになれませんでした。『1Q84』も好きになれず、途中で止めてしまいました。だから、著者の他の作品と比較しながら本書を読むことはできません。たとえば、年上の女性に導かれながら、内省的な青年が旅を経て少し成長するという構成は、著者の他の作品とも共通するのかもしれませんが、そういう種のことが検証できないので、著者の作品をすべて読み込んでいる方に教えていただくとして。「村上春樹ビギナー」の感想としてお読みいただけたらと思います。
まずは、忘れないうちに読後感を個人的なメモとして書き残しておきます。
 
まず、最も印象的だった点。
著者は、いま感じていること、考えていること、気づいていること、理解しつつあること、不思議に思っていることを、あまり加工せずに生のままこの作品に思いっ切り表現したのではないか。私には、そう感じられました。そして、それらの内容が、偶然にも、私が感じている事柄と少なからず共通していた。そのために、本書が発する種々のメッセージが私にしっくりきた。そんなわけで、本書を読んでいる間、ずっと幸せな気持ちを味わっていました。
 
ただし、念のため、私が本書に強く共感できた理由として、私が主人公の「田崎つくる」と少なからず共通点を持っているということを断っておかなくてはなりません。田崎つくるは、団塊世代の親のもとに生まれ、現在30代半ばで、建築関係の仕事に就いている。しかも、自由が丘から新宿に通勤している。これといった特質や個性がなく、中庸を志向する。私と多くの共通点がありました。思考のパターンも似ている気がしました。
 
 
さて、本作品は、多くのテーマに言及しているように見えます。友情、恋愛、欲望、喪失、回復、嫉妬、記憶、物語、責務、仕事、職業、生業、才能、生死、精神/肉体、意識/無意識、論理/直感、運命/自由意志・・・。そんなテーマが随所に顔を出しています。しかし、あえて本作品の主題を一つ挙げるなら、「自分自身が知らない自分」でしょうか。それは決して「自分探し」のような脳天気なテーマではありません。「自分探し」は、個性を求めて右往左往する物語ですが、「自分自身が知らない自分」は、人類に共通する普遍的なテーマです。
 
本書の登場人物たちは、「自分自身が知らない自分」にいろいろな契機に出くわします。私たちも日常生活の小さな瞬間に、感じているのではないでしょうか。例えば、本書にも登場しますが、男性ならば、射精の瞬間に意外な人の顔を思い浮かべてしまった経験があるのではないでしょうか。自分自身にもその理由はよくわからず、「なぜあの人なのか」と不思議に思うしかない。あるいは、奇妙な夢を見て目覚めた時、私たちは「なぜあんな夢を見たのか」と思う。
そんな例に象徴されるように、私たちは、必ずしも自分の自由意志で行動しているのではなく、何か別の原動力によって駆動しているのではないかと感じる瞬間があります。では、「何か別の原動力」って、何でしょう。リチャード・ドーキンスの言う「遺伝子」かもしれないし、フロイトの言う「無意識」かもしれない。さらに、そんな個人の内的要因だけでなく、社会関係という外的要因によっても私たちは強く制御されているかもしれない。生まれた時代、暮らす場所、付き合う友人や恋人や家族、使う言語・・・。そういう外的要因に私たちは大きく影響され、選択肢を制限されています。でも、日頃は、そんな影響や制限をほとんど意識しない。
そうした内的要因や外的要因を改めて見つめるとき、私たちは、自分の言動のどこまでが自分の自由意志によってなされているのか分からなくなってしまう。もちろん、あらゆる要因から完全に自由な自由意志なんてありえないことくらい誰でも分かっているのだけれど、ひとたび自由意志について考え始めると、どうにも居心地の悪さを感じずにはいられない。そして、自由意志への信頼が揺らぐと、確固たる自分自身への信頼が揺らいで、「自分自身が知らない自分」が見え隠れします。
 
その他に私たちが「自分自身が知らない自分」に出会う機会と言えば、他人が私自身について表現するときでしょう。あなたがイメージしているあなたの像と、他人がイメージしているあなたの像が大きく異なっていて驚いたことはないですか。作中でも「田崎つくる」が、旧友たちとの久しぶりの会話の中で、何度もそういう経験をします。旧友が語る「田崎つくる」像は、田崎つくるにとって「自分自身が知らない自分」です。
 
あるいは、日常生活の中で、あなたが過去を振り返ったとき、「なぜ、あのとき私はあんなことを言ってしまったのだろう」「なぜ私はこの選択肢を選んだのだろう」と思った経験はないでしょうか。作中で、登場人物たちは、そうした思考を何度もします。現在の自分自身の言動は、未来の自分自身が振り返って見たときに、少なからずその意味や理由が釈然としない部分を含んでいるわけです。つまり、「過去の自分」「現在の自分」「未来の自分」は、互いに「自分自身が知らない自分」なのです。
 
そんなふうにして本書の中で、私たちは「自分自身が知らない自分」について考えるきっかけをたくさんみつけることができます。もし、自由意志や無意識について少し科学的な視点から考えてみるなら、『意識』(スーザン・ブラックモア)、『隠れた脳』(シャンカール・ヴェダンタム)などが面白いかと思います。
 
  
ところで、著者は、何のためにこの小説を書いたのでしょうか。
著者が作中で描く謎のいくつかは、結局、謎のままに終わります。また、ストーリー進行は、主人公が旧友たちを順番に訪ねてまわるという、シンプルなものです。じゃあ、謎が解明されなかったりストーリーが単純だったりするからこの小説がつまらないのかというと、まったくそんなことはありません。むしろ、一行一行の文章に、驚き、共感、発見が満ち溢れていました。少なくとも私にとっては。
極端に言えば、作者にとって本作のストーリーや謎解きは二の次だったのではないでしょうか。むしろそれよりも、読者に伝えたい形にならない思いやメッセージがたくさんある。それをとにかく表現したい。そのためには、小説という形式が最適である。そう考えて執筆したのではないかと推察します。そうした思いやメッセージは、共通性を持ちつつも断片化された幾つものエピソードやセリフから、読者に伝わってきます。
ストーリーや謎解きが後景に退いているからこそ、私はこの作品を後々何度も読み返すことができそうです。その点で、ポール・オースターの作品を読んでいる時に感じるのと同種の充実感を味わいました。
 
あと、「リアリティー」について、一つ気づいたことがあります。
作中の会話は、まるでアメリカ映画のような気の利いたセリフが連発したりして、少々リアリティーがない。主人公が夜に見る夢についても、あまりに細部まで明晰に描写されるので、あまりリアリティーがない(これらは、村上春樹さんの作風なのでしょうか)。にもかかわらず、作品全体には、強くリアリティーを感じました。その理由はおそらく、描かれている世界像にリアリティーがあるからです。どういうことかと言うと、本書を読むと、私たちは、「ああ、そうだよなあ、確かに、人生って、このように進行しているかもしれないなあ」「大なり小なり、誰もがこんなふうに人生を歩んでいるのかもしれないなあ」「人間関係って、こういうもんだよなあ」と感じるでしょう。こうした普遍的な感覚が、本作の小説世界全体にリアリティーを与えているように見えました。
読み終える頃には、一人の人間が抱える状況や歴史はあまりに複雑な要素で構成されていて、人間の幸福や不幸を簡単に計量することは不可能なのではないかと思えてきます。AさんはBさんより幸福だとか、AさんはCさんより不幸だとか、そんなことはとても比較できない、そう思えてきます。
 
ところで、田崎つくるは、駅舎の建設部門で働いているのですが、実際には、新築よりも、既存駅の修繕のほうが、圧倒的に多い。そして同時に、つくるは、作中で過去の人間関係を修復してまわる。つくるは、「メンテナンスの人」なのです(これは、多くの書評で言われそうですね)。このメンテナンスという観点が、なぜか魅力的でした。
 
また、主人公が作中で変化し成長するという点も、本書を魅力的にしています。田崎つくるは、駅を観察することが幼少期から大好きで、駅のベンチに座って、流れる電車や人をずっと見ていることが好きです。ところが、小説の終盤で、いつものように新宿駅で電車や人を眺めるシーンで、こんな描写があります。
「数え切れないほど多くの松本行き特急列車を眺めてきたにもかかわらず、自分自身がその列車に乗り込むという可能性は、これまで一度も彼の頭に浮かばなかった。そんなことは考えつきもしなかった。どうしてだろう? つくるは自分がこのまま列車に乗り込み、今から松本に向かうところを想像した。決して不可能なことではない」(P.355)
つまり、つくるが「観察する人」から「行動する人」へと変わりかけていることを予感させます。まるで映画「ベルリン天使の詩」で、天使が人間になった瞬間のようです。
ちなみに、上記の引用部分は、自由意志というテーマとも関わっていると言えそうです。
 
読後感のメモにしてはずいぶん長くなってきましたので、そろそろ終えましょう。
 
先日のブログで『舟を編む』について書いた際、「この小説には、葛藤が登場しないから登場人物たちが成長しない」と書きました。それとは対照的に、『色彩を〜』は、葛藤だらけの小説です。ほぼ100%葛藤といってもよいくらいですね。だから、登場人物たちが、悩み、変化し、成長します。そのプロセスを通して、読者は登場人物たちに感情移入することができます。この感情移入する仕掛けは、著者のサービス精神とエンターテイメント能力によるものだと思います。「サービス精神とエンターテイメント能力」という言葉が良くなければ、こう言ってもよいかもしれません。著者は、この小説を媒介にして読者にどうしても伝えたいメッセージがある。だから著者は、読者に強く精神を躍動させながらこの作品を最後まで読み切ってもらわなくてはいけない。そうした切迫した気持ちから、あくまで手段として、感情移入できる仕掛けを設けた。そう感じました。
 
さて、最後に。
この小説をどんな方々オススメしたいか、です。
もしあなたが、「私は、これといって取り柄もないが、人並みに悲しんだり、人並みに喜んだりしながら生きているのかもしれない」、日々そう感じているなら、本書はあなたに大変オススメです。途中で読むのをやめられなくなるかもしれませんから、週末などに読み始めてくださいね。
そして、読み終えたらきっと、大切な人に早く会いに行ってこの本の話をしたい、そう思うはずです。
 
  
  
〈勝手に採点〉
・登場人物たちの魅力 ★★★★★
・ストーリー展開 ★★★★☆
・設定(時代、場所、状況等) ★★★★★
・メッセージ性 ★★★★★
・文章の魅力 ★★★★★

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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