『フォトリテラシー』(今橋映子/中公新書)を読む。



4年ほど前に購入し、いつか必ず読もうと思いながら書棚に置いておいた。
本書で語られるのは、芸術としての写真作品ではなく、報道写真。報道写真をどう見るべきかのヒントが濃密に展開される。
写真を撮ることや観ることは好きだが、そもそも写真をどう見ればよいのかハッキリとした視点がなかなか持てない、ともどかしく感じている方には大変オススメの一冊。
  
フォトジャーナリズムが成立したのは、1920年代後半。以来いままで、私たち鑑賞者は、報道写真は「決定的瞬間」「演出なしの、ありのままの現実」であってほしい(あるはずだ)と盲信しがちだ。
けれど、「写真は選択の芸術」(P.30)。著者が示すように、一枚の写真が私たちの目に触れるまでの間に、写真は多くのプロセスを経る。膨大に撮影されたカットの中から数カットが選ばれ、ときにトリミングされ、雑誌や新聞であれば編集する人間が意図をもって並べる。紙やインクの種類、あるいは文字との組み合わせ方によっても写真の印象は大きく変わる。
 
そこで、一部のフォトジャーナリストたちは、なるべく現実に近い写真を人々に伝えたいと考えた。例えば、第二次大戦後にロバート・キャパカルティエ=ブレッソンらによって設立された写真家集団「マグナム」は、トリミングの拒否や非演出を強く主張した。もちろんそれは重要な姿勢であろうが、写真の意味を変容させたり、現実を伝え損ねる要因は、上記の複雑な制作過程だけにあるのではない。むしろ、もっと重要な要因がある。それは、例えば、写真展や雑誌などをつくるキュレーターや編集者の政治的な思惑。あるいは、異文化を撮影する際に写真家につきまとうオリエンタリズムの視点。撮影者や鑑賞者が「こう見たい」と無意識に希求するステレオタイプの観念。それらのファクターこそ、写真の意味合いを大きく変えてしまう要因となる。
 
こんなふうに「写真にとって現実とは何か」「写真は真実か否か」といった観点が議論される一方で、エドヴァン・デル・エルスケンのように、ドキュメント写真を介して架空のストーリーを語る「フォトナラティブ」という手法をとった写真家もいる。そこには多分に演出の要素が入り込むのだが、しかしその写真は、ある都市の、あるいはある時代の、リアリティーを表現しているようにも見える。
つまり、著者が指摘するように、「アート/ジャーナリズム/コマーシャリズムの境界はきわめて曖昧」(P.76)なのだ。ならば、どんな写真が価値を持つのだろうか。本書によれば、「世界や人生を異化し、観る者を立ち止まらせないではおかない一枚」だ。
では、報道写真は、世界の不幸を救えるのか。本書の終盤で語られる通り、写真が直接に戦地や飢餓を救えるわけではない。しかし、「世界や人生を異化し、観る者を立ち止まらせないではおかない一枚」は、その写真と出会う私たちに「思考の契機」を提供する。そして、私たちは、「(その写真が私たちの手元に届くまでの)諸現象に思いをめぐらし、調べ、思考して初めて、私たちは自分自身の判断を下すことができる」(P.201)。ということは、写真という媒体は、参加型の表現媒体といえるのかもしれない。
 
本書の議論そのものは、ごく当たり前で優等生的に見えるかもしない。けれど、本書には「諸現象に思いをめぐら」すためのヒントに満ちている。デジタルカメラSNSの普及で写真があまりに日常的な存在になった今、写真というメディアの特質について改めて考えてみるための上質な入門書と言えるのではないか。


フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)