『青い野を歩く』

『青い野を歩く』(クレア・キーガン白水社)を読む。
アイルランドの女性作家による短編集。
読み始めてしばらくして、なぜこんなに暗い小説を書いたのだろうかと思った。途中で読むのを止めようかと、何度も思った。しかし、作者がやむにやまれずこれらの小説を書いているという印象を受けたので、その迫力に押し切られ、中断することができなくなった。


僕たちは日常の暮らしにおいて、「所有する人/所有されるも」の関係ははっきり分かれている、そんな気がしている。所有に関して、主体と客体は明快に分かれていて、所有者は「私は、私の自由意志に基づいて、ものを所有している」と思っている。確かに、自動車を所有したければ、自分の意志で購入し、それを所有することができる。
ところが、人生の重要事項に関してみれば、何かを所有することは、そんなに一筋縄ではいかない。例えば、欲しいものが手に入らないこともある。欲しくないものを背負い込んでしまうこともある。捨てたくても捨てられないものもある。あるいは、いったん所有したら、むしろ所有者が所有物に縛られ、いったいどちらが所有者なのか分からなくなる(この所有関係の反転については、鷲田清一氏の『わかりやすいはわかりにくい?』(ちくま新書)にも詳しく書かれている)。本書の中で、所有物は「土地」「家」「家族」などに象徴されている。


本書に収録された作品は、そんな生きる上での所有の難しさやコントロールの効かなさについて思いを巡らせるきっかけを与えてくれるだろう。
例えば、「波打ち際で」という作品。「人は恋に落ちる相手を選べない」というセリフが登場する。人は、好きになる相手や所有するものを自由に選んでいるような気がしているが、実はそうではない。必ずしも所有したくなかった人間関係をいったん手に入れてしまい、後からそれを捨てたいと思っても簡単には捨てられず、それに縛られる。現状を捨て去るのは不安だ。なぜなら、それを捨てた後の日々は、「(海の深さが)どれぐらい深いかわからなかった」(p.150)のと同じくらい、分からないからだ。
例えば、「森番の娘」という作品でも、人はこだわっていたもの(家、土地、愛犬)をあっさり失う一方で、捨てたくても簡単に捨てられないもの(家族、近所の人間関係)に縛られる。


さらに、「所有」と表裏の関係にある「喪失」も、本書の、あるいはこの作家の、大きなテーマの一つであるように見える。何かを失ったそのとき、人は何を求めるのか。表題作の「青い野を歩く」では、元恋人の結婚式に出席した神父が感じる喪失感を淡々と描く。


本書は、小説という形式を通してしか味わえない感覚を描いていると思う。その点で大いに評価したい。ただ、ひとつだけ気になったのは、象徴的なシーンの使い方がやや稚拙に感じられる点。花嫁のネックレスが切れて、床に真珠が跳ね散らばるシーンなどは、やや陳腐ではないか。


本書全体に漂う、抑圧的で静かな暗さが、印象的だ。訳者はあとがきで、「ほんの一世代前まで、アイルランドカトリック教会の支配力が強い保守的な社会だった」と書いている。静かで暗い小説が好きな方にはおすすめの一冊。
今後の飛躍が楽しみ。

青い野を歩く (エクス・リブリス)

青い野を歩く (エクス・リブリス)