『Self-Reference ENGINE』(円城塔/ハヤカワ文庫)を読む。

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

まだ全部読み終えてはいないのだけれど、ちょっと大胆な(そして、もしかするとピントが思いっきり外れているかもしれない)感想を書いてみよう。
ひとまず本書は、僕の個人的な興味にとって、実にエキサイティングな小説集であった。ジャンル分けしにくい小説が好きな方や、不可思議な小説なのに読んでいる時間がどうにも心地良くて、ついページをめくり続けてしまう小説が好きな方にオススメです。
 
本書を読みながら、一つ気づいたことがある。
まったくの僕の直感的な推察だけれど、書いてみよう。
 
結論から言ってしまえば、こうだ。この小説集は、「円城塔という作家がどのように小説を創作しているのか」について書かれている。
このことを、誰も指摘していないのだろうか、それとも逆に、ほとんどの読者が当たり前のように気づいているために、あえて話題にもならないのか。その判別がつかない。この作家の作品を読んでいる方がいたら、ぜひ教えていただきたい。
 
円城塔という作家がどのように小説を創作しているのか」について書かれているとは、どういうことか。本書に収録された短編を参照しながら、具体的に二つ例を挙げてみよう。
一つは、「08:Traveling」という短編。この作品に登場する「巨大知性体」を「作家」に、「統合作戦本部」を「編集部」に、「人間」を「読者」に、それぞれ置き換えて読んでみよう。僕の言いたいことが、いくらか分かってもらえるかもしれない。
もう一つは、「05:Event」。この話のp.92からp.101までは、ほとんど円城の創作方法が語られているのではないかと思う。そんな視点で本書を通読してみよう。なるほど、と思っていただける箇所が山ほどあるのではなかろうか。
 
では、「円城塔という作家がどのように小説を創作しているのか」について、僕の実に勝手な推察を少し書いてみよう。
円城塔はおそらく、小説を半ば自動生成できる仕組みを思いついたのだ。(そして、その仕組みを今もブラッシュアップし続けているのではないか。)
だとすると円城は、小説を書くにあたって、小説の内容自体(人物設定、状況設定、テーマ、ストーリーなどなど)を一から自分の頭でひねり出しているわけではない。エクセルなのかワードなのか、あるいは、自作のプログラムなのか、あるいは、意外にも手作りのカードなのか、どんな具体的なツールを使っているかは分からないが、何らかの機械的な方法を使って創作しているように見える。そうすれば、小説なんて無限に算出できる。円城はそう考えているのではないか。
 
では、小説の自動生成とは、どのようにやるのか。あくまで例えばの話だけれど、次のような方法が考えられる。
まず、小説を構成するための変数を細分化し、リスト化する。「時代」「時間」「場所」「主題」「話題」「テイスト」「展開」「メインのオブジェ」「小道具」といった感じだ。
そして、これらの変数に入りうる中身を、なるべく多く列挙する。「時代」という変数の中身なら、「現代」「昭和」「江戸」「ちょっと未来」「すごく未来」といった感じ。「主題」という変数の中身なら、「科学」「家族」「愛」「友情」「戦争」など、無限に挙げられる。「場所」の中身なら、「都市」「郊外」「アメリカ」「地下室」「庭」など。これも無数に挙げられる。「テイスト」の中身なら、「SF風」「サスペンス風」「探偵小説風」「時代小説風」「マンガ風」「ロマンチック」「コメディ」など、これも相当数を挙げられそうだ。「展開」の中身なら、「最後にどんでん返し」「途中で急展開」「同じ行動を繰り返しつつ、少しずつズレていく」などなど、いろいろ考えられる。
このような変数の中身を、何かの方法でシャッフルして組み合わせる。サイコロでもルーレットでもどんな方法でもいいので、シャッフルする。あるいは、順列組み合わせで、すべての可能な組み合わせを検証してもいい。このようにして作家は、小説の着想に関して無限のバリエーションを得ることができる。
あとは、こうして算出された個々の着想に、肉付けをしていけばよい。ただし、この肉付け作業には、作家の「知識」と「センス」と「想像力」が求められる。つまり、着想を算出することは誰にでもできるが、それに肉付けすることは誰にでもできるわけではない。けれど、さらに言えば、円城は、この「知識」と「センス」と「想像力」すらをも自動化できると模索しているはずだ。
つまり、究極的には、小説家が「小説の内容を考える作業」を一切しないのに、小説が半ば自動的に産出される。そんな状態を、円城は追い求めている。僕には、そのように見える。
 
こんなことを書くと、「『小説の内容を考える』という作業を一切しない小説家なんて、手抜きではないか!」とか「そんなもの小説ではない!」と言って怒り出す人がいるかもしれないので(そんな人、いないか)、もう少し補足しておこう。
もし仮に円城が「『小説の内容を考える』という作業を一切しない小説家」を目指しているとしても、それは手を抜くことを目指しているわけでは、おそらくない。
たぶん円城は、「高尚な小説を生み出すために、わざわざ小説家が高尚なことを考えねばならないのか」「悲しい小説を書くために、小説家が悲しい内容を考え出させねばならないのか」、そう考えているのではないか。作家個人の職人的な創造性や鋭敏な感受性に依存して書かれた小説だけが、小説なのではない。そんな伝統芸能みたいにしか生み出せない小説ではなく、もっとジェネリックな方法で生み出される小説が読者を楽しませたっていいはずだ。僕には、円城がそう考えているように見える。
意味のある文章や価値のある文学作品を生むために、意味のある思考や価値のある思考が本当に必要なのか。円城が、そう問うているように見える。
 
なぜ僕が、大した根拠もなく、「円城塔は、何らかのパターンを使って、半ば自動生成のように小説を量産している」なんて推察をするのか。それは、僕自身が、5年前くらいから、そのような方法で雑誌の企画を発案しているからだ。僕は職業上、実利的な企画から抽象的で夢のある企画まで、幅広くいろいろな企画を作らねばならない。というか、作りたい。振れ幅のある企画を産出したいわけだ。では、そのためには僕自身が振れ幅のある思考をしなくてはならないのだろうか。そんなことはない。そうではなく、振れ幅のある企画が産出されるような方程式だけを何種類か考えておけばよいのだ。「企画」を考えるのではなく、「企画を生み出す方法」を考えるべきだ。そう思っている。
そもそも一人の人間が思いつく企画の振れ幅など、たかが知れている。だから、自分の思考の振れ幅に頼ったら危険だ。どんな方法で生み出されようと、その結果生み出された企画が、読者の方々の役に立ち、読者の方々に「面白かった」「役に立った」と感じてもらえるのなら、それでよいではないか。
 
いやあ、ずいぶん勝手な妄想を長々と書いてしまった。作家本人に見られたら、「全然そんなこと考えてないよ、バカ」なんて怒られるかもしれない。汗
 
では、最後に一つ。
本書の「02:Box」という話の中に、変な箱が登場する。開かずの箱だ。巨大で意味ありげで謎めいた箱なのだが、おそらく中身は空っぽ。でも、本当に空っぽなのかどうかは、開かないから分からない。表面的には意味ありげに見えるのだが、コンテンツ自体は存在しない。にもかかわらず、人々を妙にひきつける。その箱こそ、円城塔の小説の在り方を象徴している。