『東京ロンダリング』(原田ひ香/集英社)を読む。

読み始めると、作品の中に流れる空気に強く引き込まれ、読むのをやめられなくなる。そんな小説だった。柔らかくてぬるい空気が漂う小説が好きな方には大変オススメの一冊だ。
 
主人公の内田りさ子は、「ロンダリング」を生業とする32歳の女性。
ロンダリングとは、事故物件(自殺者や殺人事件のあった部屋)に一定期間住むという仕事。不動産屋は、事故物件の次の住人には、その事故の事情を話す義務がある。しかし、一定期間誰かが住めば、その後は説明義務が課されない。
なにやら、替え玉のような、欠員補充のような、場当たり的な穴埋めのような、実にネガティブで受け身な仕事に見える。しかも、ロンダリングは、架空の職業かと思ったら、実在する職業のようだ。こんなニュースやサイトがある。
http://www.excite.co.jp/News/net_clm/20090921/Getnews_29962.html
http://www.oshimaland.co.jp/
 
日本は、ここ10年以上にわたって、毎年3万人以上が自殺する国だ。精神科医の野田正彰は、近著『現代日本の気分』(この本は、頭と心にズシンと響くとてもいい本だ)の中で、日本社会を「自殺が組み込まれた社会」と呼んでいるが、そんな社会において、ロンダリングは一大事業だろう。
 
本書を読む前は、ロンダリングという設定からして、これは観念的な小説ではないか、と思った。実際に読み始めると、中盤からヒューマンな雰囲気になった。そして、「もし、終盤で単なるハッピーエンドの、ちょっとイイ話になったら、まったく面白くないな」と思いながら読み進めると、なんとも言えない生温かいエンディングとなった。それで、僕はこの小説が好きになった。
 
なお、僕は、内田りさ子のイメージとして、作者の原田ひ香さんをイメージしながら読んだ。というのは、カバーの作者プロフィール欄に作者のポートレートが載っていたからだ。
 
りさ子は(というか、この作家は)、街を描くときも、人物を描くときも、それらに一元的な価値を与えず、価値判断を保留する。善悪や好き嫌いの両面を描く。勧善懲悪のような分かりやすい図式で対象を描かない。そのためか、登場人物たちは皆、どこか憎めない、ぬるい魅力を放っている。登場人物たちに会ってみたくなる。
まさに、作者自身が、作中でロンダリングの心構えとして度々言われるセリフ「いつもにこやかに愛想よく、でも深入りはせず、礼儀正しく、清潔で、目立たないように。そうしていれば、絶対に嫌われない」のスタンスで、街や人を描いているのかもしれない。そして、このセリフは、現代都市に生きる若者たちの人付き合いのスタンスを的確に言い表している。いや、若者だけではない。作中でロンダリング仲間の中年男性「菅さん」が、「僕はね、世界一断られやすい人間を目指しているんです」と言うように、それは中年男性も共有する人付き合いの作法かもしれない。
 
さて、あるきっかけで、りさ子は、東京・谷中の定食屋「富士屋」を手伝うことになる。最初は嫌々ながらも、懇願されて仕方なく手伝い始め、徐々にその仕事に馴染んでいく。
こうして、りさ子は二つの仕事を持つに至る。
 
この二つの仕事は、本作の大事なテーマに見える。
つまり、作中で、二つの種類の働き方が描かれているわけだ。もっと言えば、人が社会とかかわる際の二つのタイプが描かれている。
一つは「ロンダリング」タイプ。もう一つは、「定食屋の手伝い」タイプ。
ロンダリング」タイプの仕事は、人が嫌がる作業(事故物件に住むという作業)に耐えることができ、いくつかの条件を満たしていれば、誰でもよい。あなたでなくてもよい。いわば、「匿名性の高い仕事」。適切な例えか分からないが、これは原発の作業員を連想させる。
一方、「定食屋の手伝い」タイプの仕事は、りさ子が亮(富士屋の跡継ぎの青年)や眞鍋夫人(りさ子が一時滞在するアパートの大家)に懇願されて就くのだから、りさ子でなくてはならない。いわば、「固有名に基づく仕事」。(もちろん、亮は、単なる仕事仲間としてではなく、恋愛感情ゆえの発言だが。)
 
おそらく、多くの人が、「ロンダリング」タイプの仕事の仕方よりも、「定食屋の手伝い」タイプの仕事の仕方を望むだろう。「他の誰でもなく、あなたでなくてはダメだ」と言われたいだろう。
けれど、「ロンダリング」タイプの仕事も重要で、現代社会という巨大システムや東京という巨大システムを稼働させるには、このタイプの仕事が不可欠だ。というよりむしろ、世の中に存在するほとんどの仕事が、「ロンダリング」タイプの仕事と言えるだろう。スティーブ・ジョブズのような個性的な人間ならいざ知らず、企業の社長ですら、ある日突然死んだとしても、数日か数週間もすれば、その企業は何事もなかったかのように動いている。
  
けれど、考えてみれば、「ロンダリング」タイプの仕事(匿名性の高い仕事)と「定食屋の手伝い」タイプの仕事(固有名に基づく仕事)は、厳然と峻別できるものではない。
匿名性の高い仕事として働き始めても、その人が徐々に信頼を得たり、仕事仲間から愛着を持たれたりして、固有名の人へと移行していく場合は少なくない。作中でも、菅さんが行方不明になるシーンでは、りさ子をはじめとする仕事仲間は、単なるビジネスの範囲を超えて、彼のことを心配する。
では、どうすれば、匿名性の高い人間関係から、固有名に基づく人間関係へと移行できるだろうか。それには、一つ条件がある。それは、先述の「いつもにこやかに愛想よく、でも深入りはしない〜」という、お行儀のよい都会の現代人の付き合いの作法をやめることだ。職場の仲間でも、友人でも、恋人でも、誰と付き合う場合にでも、僕らがその人に深入りしない限りは、いつまでたっても、その人とは匿名の付き合いのままだ。
 
それにしても、この亮という青年は、一見「草食系男子」のように描かれているが、かなり積極的にりさ子にアプローチする。匿名性を脱して固有名に基づく人間関係を結ぼうとしたら、人に対してこのくらい積極的に働きかけなければならないということかもしれない。
  
なお、この「匿名/固有名」という対比は、他のシーンでも描かれる。
眞鍋夫人は、昔を述懐し、バリバリのワーキングウーマンで自立を謳歌していた自分よりも、小さな定食屋を営む男性にプロポーズされてなんとなく嫁いだような同級生(百合子)のほうが幸せそうに見えたと語る。一見すれば、眞鍋夫人のほうが自由と可能性を多く手にしており、百合子のほうはあまり自由と可能性を多く手にしていないように見える。にもかかわらず、なぜ百合子のほうが幸せそうに見えたのか。それは、ワーキングウーマンの眞鍋夫人は匿名の存在だが、百合子は固有名の存在だからだ。別の言い方をすれば、眞鍋夫人は自分のために頑張っているが、百合子は人のために頑張っているからだ。
このくだりは、読む人に、幸せとは何かを考えさせる。
  
ところで、食事のシーンが多く登場するのが印象的だ。
食べ物にも、匿名性の高い食べ物と固有名の食べ物があるように思う。
りさ子は、ロンダリング生活にどっぷり浸かっている間、コンビニ、ファストフード店、ファミレスなどで食事を済ます。それらは、匿名性の高い食事だ。いつ、誰が、どこで、どんな食材を使って、誰のために、どうやってつくったのか、ほとんど分からない。
一方、「富士屋」の定食や、亮が目の前でりさ子のために作る食事は、とても美味しそうに描かれている。それらは、固有名に基づく食事だ。特に、中盤(108ページ)の厚焼き玉子と出汁巻き玉子の描写では、ヨダレが出そうになる。
匿名性の高い食事は、おそらくあまり人を幸せにしない。固有名に基づく食事は、おそらく人を幸せにする。
最近、実感として思うのだが、どのくらい複雑で手間暇をかけた食事を食べるかは、人格形成に大きく影響するのではないか。
 
最後に。
この小説が、僕に与えてくれたメッセージは、二つだ。
一つ目。「自分がやりたいと望んでする作業」よりも、「誰かに『あなたにぜひやってほしい』と請われて受身的に(半ば強制的に)渋々始める作業」のほうが、ときとしてその人を幸せにする可能性がある。
二つ目。素敵な食事のシーンが頻出する小説は、おそらく、たとえそれが自殺や死を扱う作品でも、さほど絶望的な小説にはならない。つまり、「固有名に基づく」(特定の誰かのために作った)手の込んだ素敵な食事を食べる世界で、人は完全に不幸になりきることはできない。
 

東京ロンダリング

東京ロンダリング