『社会は絶えず夢を見ている』(大澤真幸/朝日出版社)を読む。

社会は絶えず夢を見ている

社会は絶えず夢を見ている

ここ数年、サブプライムローン問題やリーマンショック、それに続く世界的な金融危機、さらには、それらの事情と国内の事情が掛け合わさって生まれる日本経済の失調を眺めつつ、あるいは部分的に体感しつつ、「資本主義という仕組みを推し進めるのは、もう無理だろうなあ」と何となく思っていた。かといって、それに代わる社会システムは思いつかない。
そんな折、北海道出身の知人と話している時に、その人が話の流れでこんなことを言った。「実家のまわりには、農業や漁業をやっている親類や知人がたくさんいるので、互いに食材を融通し合っている。だから、北海道にいると食材にはあまり困らない」、と。それは、東京でしか暮らしたことのない僕にとって新鮮な社会像だった。(たぶんそれは、古来から日本全国に当たり前過ぎるほど当たり前に実在していた社会像なのだろうけれど。)
それは、贈与や物々交換の類のコミュニケーションだ。このタイプのコミュニケーションが僕たちの日常生活の何割かを占めれば、それほどお金を持たなくても、異常な残業をしなくても、生きていけるのではないか。そうやって、ある程度、資本主義から降りることができるのではないか。あくまでぼんやりとだが、そう思うようになった。(むろん、その農業や漁業が成立しているのも、現在の資本主義経済あってのことだから、話はそう単純ではないと思うが。)
こんな発想を、もっと精緻に理論化、社会の仕組みとして具体化していけば、「革命」になるかもしれない。本書の「第四講」は、そう思わせてくれた。少しの驚きと大きな収穫だった。既に高円寺を拠点にリサイクルショップなどを展開している「素人の乱」などは、「革命」の一種なのかもしれない。

本書は、四回分の講義録だ。抜群に面白く、ページをめくる手を止まらなくなる。
個人的には、日本語の特性と外来語輸入における精神性をテーマにした「第一講」と、リスク社会の恐怖をテーマにした「第三講」が大変エキサイティングだった。
これまで著者が最も頻用してきたであろう「第三者の審級」という概念が、今までよく理解できなかったのだけれど、「第三講」を読んで分かった気がした。「第三者の審級」とは、所与の環境(自然とか市場経済とか)を設計した(と思われている)何者かであり、その所与の環境の中で起こる出来事に意味づけをしてくれる何者かであるようだ。そして、その所与の環境の下で大災害や変調が発生した時には、人々はその何者かの責任にすればよい。そんな存在が「第三者の審級」なのだと理解した。「第三者の審級」の座は必ずしも神でなく、社会主義国家などでもよいが、神の場合が多い。例えば、火山が大噴火して、付近の町が壊滅的な被害を被ったら、「おお、山の神(第三者の審級)がお怒りになった」ということになって、人々の責任ではなく神の責任ということになる。あるいは、かつて、市場の適正価格の調整は、「神の見えざる手」が行なっているということになっていた。
ところが、「第三者の審級が、本質においても実存においても不確実になったことがリスク社会を招来した」(p226)という。なぜそういう理路になるかが、分かりやすく説明されている。ちなみに、このあたりの説明を読むと、なぜ近年、「自己責任」の意識が社会に蔓延し、人々を苦しめているのかも分かるかもしれない。
そこで、ふと思ったのだけれど、アメリカの国民が強烈に自己責任を信奉している理由は、アメリカという国が最初から人々の手で構築されたものであり、そもそも「第三者の審級」を欠いているからではないかと思えてくる。日本を含め多くの国では、国民は、「我々の先祖は、気づいた時にはいつの間にかこの土地で暮らしていたんだろう。まさか自分たちで意図してこの地を選んで建国したわけではあるまい」ときっと感じている。だから、国や国土は所与のものだ、自然発生的なものだ、と感じながら暮らしている。ということは、僕らは、それらを“自然”に“発生”させた超越的な何者か(「第三者の審級」)がいたことをぼんやり想定している。でも、アメリカをつくったのは、「超越的な何者か」ではなく、他ならぬ自分たちだ。そうなると、「アメリカで生じるすべてのことは我々の責任だ」という意識が強くなるんじゃなかろうか。

  
あとがきにも書かれているが、本書が、「3.11」以前の講義で語られた内容であることに驚愕する。「3.11」で前景化した問題が、既に本書の中で存分に語られている。
もし、今の時代状況に対して、「何かを変えねばならないとは思うが、何をどう変えればいいのか、なかなか足がかりを掴めない」と感じている方々がいれば、ぜひ本書をお薦めしたい。
今後、何度か読み返したい一冊。